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■ 最近の寄稿より




『建築ジャーナル』2004年2月号 掲載
今も同じように

 私は毎年、年末年始にかけて家族とともに奈良ヘ出かける。数日泊まって年越しをするというのがならいになって、これでもう30年近い。初め、夫婦2人の家族だったのが、そのうち娘を入れての3人になり、その娘も今はもう18才になった。

 30年近く出かけているが、毎年新しいことがある。

 今度の奈良行きで新しいことは、今、日本の自然は鎮守の森を持つ神社が守っていると力説する春日大社の権宮司に会ったことだ。その視点に立って、彼は神道の根本原理は人間にしろ、動物、植物にしろ、生命あるものの「共生」にあると主張する。私もその根本原理に賛成すると言い、その「共生」のモトジメの春日大社が主催して、世界に呼びかけ、「世界平和会議」をやってみないかとけしかけた。この私のけしかけが実現するかどうかは、それこそ、春日大社の今やその数実質1,600頭を超えたという神鹿のみが知っていることだ。試しに訊ねてくれたまえ。

 もうひとつ新しいことは、奈良の東郊の山中に所在する「古事記」の編者「太安萬侶」のはかを訪れたことである。

 この墓は、1979年に茶畑の改植作業をしていた土地の持ち主が偶然掘り当てたという墓だが、おどろくほど急峻な茶畑の列の頂上近くにある。今はそこに至る道も整備されているが、それにしてもおどろくほど急峻な斜面だ。ようやくそれを登り切ると、円形の墓に達する。そこで誰もが考えることは、もちろん、私も考えたが、まず、いったい何でこんなところに「古事記」の編者の墓がつくられたのかということだ。奈良からはるばるとやってきた上に、さらに急峻な茶畑の斜面を登ってたどり着く。いったいどうしてこんな不便なところに、この後世にまで名が伝わる日本歴史上の重要人物の墓をつくったのか。

 あれこれ考えながら、墓の横の「説明文」を読んでいるうちに、茶畑の下から火葬された「太安萬侶」のものとおぼしき人骨とともに出土した墓誌の文章に行き当たった。その銅製の墓誌が出土したからこそ、そこが「太安萬侶」の墓だと判明したのだが、さて墓誌の文章は次のようなものだ。

 「左京四条四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以亥年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳」

 読んでいて、何か呆然として来たのは、そこに「従四位下勲五等」という彼の現代に通じる位階勲等が出て来たからだ。「従四位下等」とは天皇の家来としての地位。つまり、どれだけえらいのか、えらくないのかを示し、「勲五等」は、どれだけ天皇に「功」があったかを示す指標だが、「従四位下」がさしてえらい地位ではないことは察しがつくし、「勲五等」も「太安萬侶」の「古事記」の編者という日本歴史の修史の大事業も、当時としてはその程度の「功」だったかも、これも容易に認定できることだ。

 同じ時代、彼より上位の人たち、はるかに上の貴頭たちは、いったいどのような「功」を立てて、「勲一等」「勲二等」になっていたのか。今名らどういうことになっているのか。いや、そんなことより、「太安萬侶」の時代から千三百年近くが経って、今も同じように叙位勲等がおこなわれていること、これをどう考えればいいのか。






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