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毎日新聞阪神版「きらり 阪神な人」欄掲載(2004年1月28日号)

ひとりでもやる3
「べ平連」を結成、東京で米大使館へ最初のデモ行進

 「反戦デモやらないか」

 ベトナム戦争が激化し始めた1965年3月、小田実さん(71)に哲学者の鶴見俊輔さん(81)から電話がかかった。対談で1度会ったきりだが、即座に「やろう」と答えた。東京・新橋のフルーツパーラーに、社会学者の高畠通敏さん(70)も加わり3人が集まった。デモ日程に続き、団体名を考えた。小田さんはテーブルの紙ナプキンに書きつけた。

 「『ベトナムに平和を!』市民文化団体連合」

 高畠さんが言った。「『べ平連』か」

 同年4月、東京で米大使館へ最初のデモ行進。秋には作家の開高健さんの発案で、ニューヨーク・タイムズ紙の1ページ全面に反戦広告を掲載。「言い出しベエがやり、他人のことに文句は付けない。要するに自由な運動だったわけよ」

 67年、横須賀港の米空母の米兵に脱走を呼びかけ、4人が応じた。知人を通してかくまい、ソ連(当時)行きの船に乗り込ませた。同時に記者会見し、事前に撮影した脱走兵を写した映画を公開。船はちょうどソ連に着いたころだった。会見は後に、かく乱のためとされたが、「予備校の講師だったおれのスケジュールに合わせただけなんだけどな」。4人はその後、スウェーデンへ逃げた。

 全国に数百の「べ平連」が生まれた。個人の「べ兵連」もいた。「この運動は一期一会。集会ではまず、次の日程を決め、金は自分がちょっと痛いと思うだけ出させる。長続きの秘けつはこれや」。ベトナム戦争が泥沼化する中、戦争と平行して運動は9年間続いた。






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