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1950年代
- 1952年(「昭和」27年)20歳
- 大阪府立(新制)夕陽丘高校卒業、東京大学教養学部入学。
この記述には(旧制)から(新制)への推移と「男女共学」の実施という「戦後」が入っている。この「男女共学」は、私がいた(旧制)天王寺中学と(旧制)夕陽丘高女の生徒、教師を半数ずつ交換して、それぞれを(新制)高校にするという画期的方法によってなされた。「男女共学」は私に「民主主義」を実感させ、その実施の方法は「革命」の可能を信じさせた。
- 1957年(「昭和」32年)25歳
- 東京大学文学部言語学科卒業、東京大学大学院人文科学研究科西洋古典学専攻修士課程入学、1958年、「フルブライト基金」を受け、ハーバード大学大学院(School of Arts and Sience)留学。
右のように書くともっともらしいが、アメリカ合州国に留学したのも、べつに「西洋古典学」のウンノウをきわめるためではなかった。留学後、アメリカ合州国内部、メキシコ、ヨーロッパ、中近東、アジア各地を歩いて帰ったあと書いた「何でも見てやろう」の冒頭の数行がすべてを言いあらわしている。「ひとつ、アメリカヘ行ってやろう、と私は思った。3年前の秋のことである。理曲はしごく簡単であった。私はアメリカを見たくなったのである。要するに、ただそれだけのことであった。」アメリカ合州国だけではなかった。私は世界を見たかった。留学を足がかりにさらに大きな旅に出た。これが「何でも見てやろう」の旅だ。
私の「西洋古典学」について少し言えば、私は大学にいるあいだ、ローマ時代のギリシア人批評家「ロンギノス」(引用符つきで書くのは、だぶん、その批評家がロンギノスでないからだ。しかし、他に名前が見つからないので、古来、そう使われて来ている)の「崇高について」を勉強し、卒業論文も書き、ずっと後年、1999年には訳と評論を「共著」のかたちで出した。
1960年4月に帰国。以後、「西洋古典学」は教えたことはないが、英語、思想、文学―多岐にわたって、日本の内外で教えた。外国で本格的に教えたのは、ニューヨーク州立大学(ストーニイ・ブルック校)。1992年から94年にかけて私が考える「日本学入門」を教えた。これは、アメリカ合州国をあらためて知るいい機会になった。また、日本をもう一度勉強しなおす機会ともなった。しかし、私は本質的に作家だ、そう自分をとらえている。作家としての経歴は、何をおいても作品だ。以下、本の題名をあげ、主として小説にかかわって必要なつけたしを加える。
- 1951年(「昭和」26年)19歳
- 小説「明後日の手記」(河山書房)
高校2年生の夏休みに書いた。もっと若いころから小説(らしきもの)を書いて来ていた私の努力がとにかくものになったのが、この長篇だが、できばえはともかくこの小説はそれまでのものとちがって、「小説家」になりたくて書いた小説ではなかった。ただ書きたくて、書かねばならないものとして、また、小説以外に書きようがないものとして書いた。
- 1956年(「昭和」31年)24歳
- 小説「わが人生の時」(河出書房新社)
前作にひきつづき、高校3年生のとき、私はかなり長い小説を書いたが、これは「没」。
「わが人生の時」は大学に入って5年をついやして書き、本になったが、私はかえって行きづまりを感じていた。自分の思考にも書くものにも、大きく風穴をあけたい、その気持のはてにあったのが、「ひとつ、アメリカヘ行ってやろう」で始まる「何でも見てやろう」の旅だ。
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