作家
 小田 実のホームページ 年譜(プロフィール)

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1990年〜現在


1990年(「平成」2年)58歳
エッセイ「オモニ太平記」(朝日新聞社)
私の「人生の同行者」は在日朝鮮人である。彼女の母親(オモニ)との私の「つきあい」を書いた。「つきあい」は面白く、重い。

1991年(「平成」3年)59歳
小説「ベトナムから遠く離れて」(講談社)。評論集「『難死』の思想」(岩波書店)
「ベトナムから遠く離れて」は、「群像」に1980年8月号から始まって1989年9月号まで9年間にわたって連載した長篇。「群像」での連載が終ったあとすぐ私は中上健次と対談しているが、その対談の題名を編集部は「日本文学の枠を超えて」(1989年10月号)とつけたが、「ベトナムから遠く離れて」は、できばえはともかく、その結構、規模においてたしかに「日本文学の枠を越えて」いる。

1992年(「平成」4年)60歳
小説「生きとし生けるものは」(講談社)。小説「民岩太閤記」(朝日新聞社)。評論「異者としての文学」(河合文化教育研究所)
「生きとし生けるものは」は「群像」(1990年10月号)にはじめ1挙掲載。「南海」に想像力を馳せた長篇。「民岩太閤記」は1985年4月号から1989年12月号まで「月刊社会党」に連載。この豊臣秀吉の「朝鮮侵略」を書いた長篇が韓国語に訳されたのを機に、同じように韓国語に訳された「オモニ太平記」とあわせてソウルで「出版記念会」が開かれることになり、訪韓。長年「忌避人物」として韓国政府からみなされてきた私が訪韓できたのは、それだけ「民主化」が進んだからだ。かつて獄中にあったのを私が直接間接に助けた人たちをふくめて多数が集まる大出版記念会になった。時代は変った、いや運動が時代を変えた。
夏、メルボルン大学の「研究員」となってメルボルンに滞在。秋、家族を連れ渡米、ロングアイランドに住み、ニューヨーク州立大学で教えた。1993年に家族は帰国、あとさらに1年、1994年までニューヨークに「単身赴任」で住み、教えた。

1993年(「平成」5年)61歳
評論集「西宮から日本 世界を見る」(話の特集)。評論「東へ西へ北へ南へ」(橋本勝との共著)(第三書館)

1995年(「平成」7年)63歳
評論「『べ平連』・回顧録でない回顧」(第三書館)。評論「『殺すな』と『共生』」(岩波書店)。評論「現代韓国事情」(加藤周一、滝沢秀樹との共著)(かもがわ出版)
1月17日未明、午前5時47分、地震が私の住居のある西宮をふくめて兵庫県南部を襲った。のちに「阪神淡路大震災」の名で呼ばれるようになったこの大惨事は、私の認識、思考、思想にあきらかにそのあとをとどめている。
8月6日、イギリスの「BBC」が「HIROSHIMA」のラジオ・ドラマを「8月6日」の記念番組として放送。また、同じ8月、アメリカ合州国のバーモント州で、「HIROSHIMA」の「野外パーフォーマンス」が、ジェローム・ローシェンバーーグの「トレブリンカ」の詩と組み合わせたかたちで「ブレッド・エンド・パペット劇団」の手で行なわれた。私もローシェンバーグとともに参加した。

1996年(「平成」8年)64歳
小説「玄」(講談社)。評論集「激動の世界で私が考えて来たこと」(近代文芸社)。評論「被災の思想 難死の思想」(朝日新聞社)。評論「でもくらてぃあ」(筑摩書房)(玄順恵との対話)「われ=われの旅」(岩波書店)
「玄」ははじめ「群像」(1994年2月号―95年5月号)に連載した長篇。愛と性と老いとニューヨークの小説。他の著作は、すべて、直接間接に震災にかかわっている。
また、この年、私は被災者に対する「公的援助」を求める「市民=議員立法運動」を始めた。はじめはまったく小さな火だったのが大きくひろがって、2年後、曲りなりにも「公的援助」は実現した。それまで、何度、国会前に被災者とともに出かけて、議員とかけ合い、坐り込み、デモ行進したことか。

1997年(「平成」9年)65歳
小説「大阪シンフォニー」(中央公論社)。小説「XYZ」(講談社)。小説「暗潮」(河出書房新社)。エッセイ集「ゆかりある人びとは…」(春秋社)
「大阪シンフォニー」を書き始めたのは1962年。3十数年経って再出発、1994年の「中央公論文芸特集」夏季号から数回連載、あとは「書き下ろし」で完成したこの長篇で、私は「私の戦後」を書いた。
「XYZ」は雑誌「ちくま」(筑摩書房)に連載(1992年1月号―94年11月号)した「市」をもとにして書きなおした未来(?)小説だが、「暗潮」は時代を逆にさかのぼって「昭和」を「書き下ろし」た長篇。これは1984年の「風河」の第2部となるもので、二つで「大阪物語」をかたちづくっている。
また、この年、「群像」(1996年10月号)に発表した短篇「『アボジ』を踏む」で川端康成文学賞を受賞した。

1998年(「平成」10年)66歳
小説「玉砕」(新潮社)。小説集「『アボジ』を踏む」(講談社)。評論集「これは『人間の国』か」(筑摩書房)
「私の戦争」を書いた長篇「玉砕」は最初「新潮」(1998年1月号)に発表した。「『アボジ』を踏む」は表題作のほかに、「『三千軍兵』の墓」(「群像」―1997年10月号)、「河のほとりで」(「社会文学」―1987年創刊号)、「43号線の将軍(チャングン)」(「文学的立場」―1980年創刊号)、「テンノウヘイカよ、走れ」(「群像」―1974年2月号)、「折れた剣」(「文芸」―1963年12月号)、「ある登撃」(「三田文学」―1957年4月号)―と過去40年にわたる作品を収めた小説集。

1999年(「平成」11年)67歳
小説集「さかさ吊りの穴」(講談社)。評論・訳「崇高について」(「ロンギノス」との共著)(河合文化教育研究所)(デイブ・デリンジャーとの)対話「『人間の国』へ」(藤原書店)(武谷三男との)対話「都市と科学の論理」(こぶし書房)
「さかさ吊りの穴」のもととなったのは、「世界」の通しの題名の下で、「群像」(1998年1月号―12月号)に発表した「連作」の世界を世界の上のさかさ吊りの穴から見た短篇小説。

2000年(「平成」12年)68歳
評論集「ひとりでもやる、ひとりでもやめる」(筑摩書房)。評論・対話「私の文学―『文(ロゴス)』の対話」(新潮社)「小田実評論撰一九六〇年代」(筑摩書房)
「小皿実評論撰」は、10月を皮切りに以後、「4 九〇年代」に至るまで、「2 七〇年代」「3 八〇年代」とつづけて2001年5月までおよそ隔月ごとに刊行される。
「『アボジ』を踏む」の「マダン劇」の上演が韓国済州島の「劇団ハルラ山」によって、1999年末の済州島での初演につづいて、釜山、ソウル、京都、東京で行なわれた。他にこれまで、私の仕事の集大成として、「小田実全仕事」(河出書房新社)全11巻が1970年から1978年にかけて刊行され、「小田実全小説」(第三書館)が未刊行作品をふくめて1992年から出版されたが、これは7巻出たところで中断している。

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