作家
 小田 実のホームページ Web連載 新・西雷東騒

■  第8回(2007.03.08)NEW
若狭、小浜の読書会のことから
■  第7回(2007.02.07)
安倍首相は辞任せよ
■  第6回(2007.01.11)
二〇〇七年・新年のあいさつ
■  第5回(2006.12.12)
「小さな人間」の勝利、しかし…
■  第4回(2006.11.07)
痛快でいい夢
■  第3回(2006.10.04)
裁判所は何のために、誰のためにあるのか
■  第2回(2006.09.14)
「平和憲法」実践の積極的提案を
■  第1回(2006.08.02)
神風は吹かなかった
■  はじめに                  

第4回(2006.11.07)
痛快でいい夢

 夢を見るなら、愉快でいい夢を見たい。これは誰しもが考えることだが、私もすでに齢74歳、人生たいして残っていない、夢を見るなら、愉快どころか痛快でいい夢を見たい。それで、私が金総書記になった夢−小田=金総書記の夢を見ることにした。私が金総書記になったら、何をするかーという夢だ。
 さて、何をするか。
 まず、世界各国の新聞記者諸氏、TV記者、カメラマン、フリーターの一発屋、とにかくわが国のあることないことを書きまくり撮りまくり、メシの種にするなり大儲けするなりして来た人すべてを招いて、ピョンヤンの人民大劇場だったか、人民学習堂だったか何だったか とにかく人が山と入るところで大記者会見をやる。誰がしゃべるのか。もちろん私―小田=金総書記がしゃべる。
 何をしゃべるのか。
 「核」実験を止め、「核」兵器開発をやめる。もうすでに「核」兵器ができているなら、すべて解体、廃棄する。いや、すでにそうした。それどころか、原子力発電など、「核」にかかわる一切の事業を止める。いや、すでに、止めた。
 私は満場の世界のジャーナリスト諸氏を見渡しながら言い、そのあとさらにつづけた。「もちろん私がこう言ったからといって、諸君は信じないだろう。では、諸君、百聞一見に如かず、これから現地にお連れしたい。外にバス、あるいは、諸君に言わせれば私が贅沢三昧に買い漁ったベンツがあまた待っている。バスは無料だが、なにしろわが国は石油が出ないので外国から買わなければならない国だ、ベンツに乗りたい方はガソリン代だけは実費で払っていただきたい。」
 それから、バス、ベンツ連ねての「現地視察」の旅だ。ここで私、小田=金総書記はオヤジの金日成がお得意だったのは現地、現場へ出かけての「現地指導」だったことを思い出す。しかし、今はバス、ベンツのキャラバン一団を率いて山中を移動しているさなかだ。そんな思い出にふけっているときではない。しかし、行き先の現地、現場は何か、どこか。
 私は言った。
 「諸君と諸君の友人の軍人やら情報機関の人物やらが、あそこだ、いや、ここだといきまいていた『核』実験の場所すべてがわれらの行き先だ。すべて諸君に前もってリスト・アップしてもらっていた場所すべてにこのバスとベンツの一団はもらさずに行く。」
 さて、いざ着いてみると、現地、現場―山腹の洞穴やら地下洞窟やらは、どこへ行っても空っぽである。しかし、みんなは唖然としているいとまはない。私―小田=金総書記は言う。「諸君と諸君の友人の軍人やら情報機関の人物たちが見つけ出さなかった秘密基地にこれから連れて行ってあげることにする。」
 またバス、ベンツ連ねての山中の移動だ。着いたところは、たしかに巨大、広大な地下基地だったが、そう見えたが、そこでもなかには何もない。「ここは何だったのか。」との当然の質問に私―小田=金総書記は答える。「ここが秘密のうちにわが国がつくっていた核弾頭の貯蔵場所だ。しかし、諸君、安心したまえ、すでに、すべて廃棄、処分した。」
 参加して来た日本人記者のなかに、泥まみれになって地べたに落ちていた私と私のオヤジの肖像写真を拾い上げてポケットにすばやく入れるはしこいのがいる。どうせ「落ちた偶像」とかの大見出しの一文をその写真つきで書くのだろう。それとも、その泥まみれの偉大な指導者の肖像写真を持っているのがバレて危うく収容所に入れられるところだったとでも書くのか。
 私―小田=金総書記はみんなに聞こえるように大声で言ってやった。
 「もうわが国ではそんな馬鹿げた個人崇拝の時代は過ぎたよ。ピョンヤンに帰って暇があったら、オヤジの銅像へ行ってごらん。今あそこでは、巨大銅像の両肩に梯子と滑り台を掛けた。子供が右肩と左肩の滑り台、どちらが速く滑り降りるかでにぎやかに競争して遊んでいるよ。」
 アメリカ人の記者に私は声をかけた。
 「おたくの国ワシントンにも、ジェファーソンやらリンカーンやらアメリカ英雄の巨大銅像があるという話だが、そちらにも滑り台を掛けてみんかね。そうきみの自由な新聞で書いてみんかね。」
 山中からの帰途、われらバスとベンツのキャラバンの一団は、ただの広大な原っぱに立ち寄った。子供があちこちでサッカーをしている。しばらくみんなで見ていると、サッカーの国のイタリアの記者が「ここは何ですか」と横を通りかかった私に訊ねた。私は答えた。「原子力発電所の跡地だよ。わが国はもうそんな時代遅れの代物をつくるのを止めたので、一切ぶっ壊して更地にした。」そう言ってから、私はドイツのTVカメラマンを呼び出した。「きみの国はバッカースドルフの核燃再処理施設を止めて、遊園地か何かにしたのだろう。それは画期的にいいことだったので、ここにも一大遊園地を作ろうと考えている。どうか、知恵を貸してくれんかね」と私は言ったが、彼はキョトンとしている。「きみは若いので、自分の国の歴史も知らないようだね。」私は彼に言い、ついでに、日本のフリーターの一発屋の若者にも、「六ヶ所村の人にもここへ来てもらって話したい」と言ったら、「それ、朝鮮のどこにあるんですか」とこれまたキョトンとした。
 「しかし、総書記、エネルギー源はどうされるんですか」とうるさ型の中国人記者が訊くので、私は答えた。「風力発電、太陽光発電、潮汐発電、地熱発電…すべてエコ発電で行く。その道の専門家を世界各国から招いて思う存分腕を振るってもらう。時代遅れのスポーツ・オリンピックはきみの国の北京に任せておいて、ピョンヤンでは『エコ科学技術オリンピック』をやる。ところで、デンマークの記者はいるかね。デンマークは世界きってのエコ先進国だ。デンマークの記者よ、ここに残って、われらの『エコ・オリンピック』の技術顧問にならないかね。」
 ピョンヤンに帰って、また大記者会見をやった。
 「『核』実験も『核』兵器も原子力発電所もわが国が止めてしまったことは、もうこれで、みなさんは十分にお判りになったと思う。それから、もうひとつ、ミサイルの生産も発射実験もすべてやめた。これまでにそうした愚かな事業のために使ってきた莫大な金はこれからすべてわが人民の生活向上と福祉増進のために使う。もうこれで諸君がこれまで得たりと報道して来たわが国の飢えたる子供の姿はなくなるはずだが、それでも少しは消えずに残るのなら、それは今の世界の構造がいびつになっているせいではないかね。それを世界共通の問題としてぜひともきみらの自由な、そうであるはずのメディアで論じ立ててキャンペインしてくれ。」
 私は会場全体を見渡して言った。
 「その上で、率先して『核』もミサイルもやめた国として提案したいが、諸君の国も、『核』実験を止め、『核』兵器やらそれを運んで他国にぶち込むミサイルやらを持つことを、もういい加減に止めないかね。あるいは、超大国の『核の傘』とやらのなかに入り、安全と引き換えに独立を失って文字通り属国となって生きるより、『傘』から出てもっと自由に生きてみないかね。今、おとぎ話のように世にもふしぎなことは、『核』実験をしたい放題にやって来て、『核』兵器もミサイルもウンザリするほど持つ国々が中心になって、ついに一度実験をやった、なけなしのミサイルを飛ばしたというだけで、よってたかってわが国は狂った、狂気の沙汰だ、制裁すると大騒ぎすることじゃないかね。わが国が正気でないのなら、諸君の国々も狂っているのではないかね。正気に戻すために自分で自分に制裁を課すべきじゃないかね。どうして諸君はそう思わないのかね。きみらの自由で理性にあふれた誇りだかいメディアでそう論じないのかね。私には全く解せないね。貧乏な国が『核』実験をやる、『核』もミサイルも持つ資格がないとおっしゃるのなら、インドやパキスタンはどうなるのかね。われら同様二国ともに『核』もミサイルも願い下げにして、もっと大事なことに金を使ったらどうかね。いや、これはインド、パキスタンだけの問題ではないだろう。聞くところによると。アメリカ人記者、TVマン諸君よ、世界で一番の金持国のきみらの国で食うや食わずの暮らしをしている人がいくらでもいるということだが、『核』やミサイルを少しでも減らしてその連中を少しは助けたらどうかね。他からの脅威は知らんが、こちらからの脅威はもうないのだからね。この話になると…」
 私は記者やらテレビ論者やら一発屋やら日本人諸氏がいるのを思い出して、彼らにも話しかけた。
 「こちらの『核』、ミサイル騒ぎで、おたくの新総理大臣やら何やらはずいぶん人気を上げたらしいし、そのうち『核』武装も考えろと言い出すお調子者までが出て来たが、しかし、こちらは『核』もミサイルもすべて止めてしまったのだ、これから彼らはどう人気取りをするつもりかね。きみらの国日本で私がこれまでフに落ちなかったことはいくつもあるが、まず、ひとつは、きみらはわが国の『核』やらミサイルやらに脅威を覚えるとおっしゃるのだが、きみらがその下にいて、護られている、そう信じなさっている『核の傘』にわが国の人間が脅威を感じていない、感じるはずがない、感じる権利はないとおっしゃるのかね。もうひとつ、ついでに言っておきたいが、私のことを『世襲』だと言い、わが国は『世襲政治』がバッコしている国だとおっしゃるが、そのことばはそのままきみらの国にお返ししたいね。前の総理大臣も『世襲』政治家なら、新総理大臣に至っては三代目の世襲だ。そして、外務大臣にしろ何にしろ、まわりの政治家諸氏もたいていが『世襲』だ。しかし、そう言えば、きみらの上に立って君臨する『核の傘』の親玉も二代目の『世襲』大統領だ。」
 私がそう言うと、声あり、「しかし、この国の人権はどうなっているのだ」とおらび上げた。ひとりがおらび上げると、たちまち多数が和してひと騒ぎになった。けれども私―小田=金総書記は少しも慌てず、「諸君、それではまたバス、ベンツで移動開始だ」とひと声叫んだ。
 「どこへまた連れて行くのか」と不安がる声に向かって、「まぁ見ていなさい、今に判る」とだけ私は応えて、バス、ベンツのキャラバンの一団を連れて行ったのが場所はちがうがまた山中、そこは粗末で見るからに陰気な建物が大量に建ち並ぶ一角だった。「何だ、ここは」の声が沸きあがる。「まるで強制収容所じゃないか。」
 その声に向かって、「その通り、ここは収容所だった」と私は言った。みんなはおどろきの声を上げた。「ここに政治犯を入れておいた。ただの脱北者も入れた。」
 「ほんとうか」とみんなはどよめく。私は「ほんとうだ」とうなずき、「しかし、もう誰もいない」とつづける。「みんな釈放した。」
 一同愕然としたが、そう見えたが、さすがそこは万事に疑い深いヨーロッパ人らしくフランス人記者が、「どこへ釈放したのか。天国へ行かせたのか」と皮肉に―当人はそのつもりで聞いてきた。私は言った。「みんな、都市であれ農村であれ、自分のもといたところに帰したよ。この国を出て行きたかった連中には、いやなら行ってよろしいと言ったが、これは相手があることだ、交渉に時間がかかっているうちに、この国のほうが今やはるかに自由があるし暮らしも安定してきているので、せっかく先方が来てよろしいと言っているのに行かない、ここにいますと言うのが激増して来ている。こんなふうに話すと、私は嘘をついていると言い出すうるさ型が出て来るにちがいないので、ここから釈放した人の全名簿を諸君に提供する。住所もついているので、自分で行って取材なさい。過去のひどかった話もゴマンと聞いて、たしかにそれは事実としてあったことなのだから、いくらでも書きなさい。私はわが国の過去のひどさを隠すつもりはない。それを認めてすでに彼らに陳謝したし、彼らにも彼らの遺族にも、できるかぎり補償しようとしている。ただわが国は貧乏だ、予算にもかぎりがある。せめてものことだ、諸君がこれまで騒ぎ立ててくれた、おかげで制裁禁輸品にもなった高級洋酒や香水や葉巻煙草のたぐい、それをたしかにわが国はずいぶんと買い込み溜め込んで来たのだが、それらを今一切がっさい諸君に市価の半額で売って、そちらの資金に補填しようとしている。すでに倉庫いっぱいに準備してあるので、ピョンヤンに帰ったら、諸君、せいだい買ってくれたまえ。ただ、きみらの国がわが国に対して金融制裁をやっているので、銀行は使えない。すべてお手もちの現金でお願いする。ただし、ニセ札は使わんでくれ。」
 私はそう言ってから、アメリカ人、中国人、ロシア人の記者を呼び出して、まず、アメリカ人の記者に向かっては、「きみの国はいつまでグアンタナモの収容所をつづけるのかね、きみの民主主義と自由の新聞はどうしてあの人権蹂躙の収容所を止めろともっと強力に主張しないのかね」、中国人の記者には、「きみの国はいつまで政治犯を牢獄に閉じ込めておくのかね、汚職摘発の人士を牢獄にぶち込んだりすることをいつになったらやめるのかね」、ロシア人の記者には、「虐殺糾弾、体制批判の本が出せないようにする、あげくの果てに著者のジャーナリストを殺すような国がどうして社会主義の圧制からやっと解放された国かね、今や言論の自由を世界のどの国よりももつわが国を少しは見習いたまえ」とそれぞれ言った。
 彼らとの話を横で聞きながら今はもぬけの殻になった収容所の粗末で陰気な建物をしきりに写真に撮っていた日本人記者が、話が一段落したところで、「しかし、この建物、どうして壊さないで手つかずのままにしておくんですか。博物館にして、外貨稼ぎをやるつもりですか」と抜け目なく質問を発した。
 なるほど日本人は賢い、商才があると感心したが、「拉致犯人をこれからここにいさせるのじゃ」という私の答はさすがに彼の意表を衝くものだったにちがいない、「拉致犯人?」と日本人記者は大声で訊ね返した。「そうだ、きみの国のムコの民を拉致してきた犯人…そいつらをこれからすべて捕まえ、取り調べて、ここに入れる。」
 日本人記者は私のことばにたまげたのか、しばらく黙り込んだが、それでも「しかし、総書記、この場所、大きすぎませんか。それとも拉致犯人はこんなにたくさんいたんですか」と広大な収容所の敷地を見渡しながら言い返した。「半分は日本人の拉致犯人のための建物だよ。きみも知っての通り日本人も昔さんざん朝鮮人の男を拉致して炭鉱に送り込み、女の子は拉致して慰安婦に仕立て上げた。そういうことをやってのけた連中をここに住まわせる。人権には十分に留意してグアンタナモやらイラクのどこやらの刑務所でのようなことはやらかさないが、日朝両国の犯人たちには拉致という許すべからずの犯罪行為をした責任を取ってもらって悔悟の余生をここで送ってもらう。」
 「しかし、総書記、かんじんの拉致の被害者はどうなっているんですか」と日本人記者は忘れかかっていたことを突然思い出したように慌てた口調で訊ねた。
 「きみの言うのは日本人被害者のことかね」と私は訊ね返した。「そうです、もちろん。」日本人は慌てた口調をつづけた。
 「全員すでに船で送り返した。ただ、さっき受けた報告では、制裁の海上封鎖でここから出た船はすべてアメリカ海軍と日本の自衛隊の臨検を受けることになっているので大幅に遅れておる。場合によっては追い返されてここに戻って来るかも知れん。さっきそういう報告を受け取って案じておる。」
 私の報告を聞いて、日本人記者は返す言葉に窮したのか少しのあいだ黙ったが、すぐまたうまいことばを見つけ出したように、「しかし、日本人拉致を命じたトップはあなたじゃありませんか。あなたこそこの収容所に入って悔悟の余生を送るべきじゃないですか」と怒った口調で居丈高に言い出した。私は静かにことばを返した。「トップは責任を取らぬものだよ。責任を取っていれば国は滅びる。実は、これはきみらの国日本から学んだことだ。きみらの国の前の天皇は何の戦争責任も取らなかったばかりか、今や平和のシンボルとなって崇められておる。戦犯諸氏も、あれは連合国がそう戦犯に仕立てあげただけのことだと言って、今や神となってヤスクニに祀られておる。これは日本の伝統なのかね、今に至っても大事故をおこした鉄道会社のトップもその地位で大儲けをやって一時糾弾された国のお金の管理の総元締めのトップも、現在の業務をかわらずつづけることこそ責任を最善に取ることだと言い募って居座りつづけておる。私もこの日本人の無責任的責任の取り方に敬意を表して、総書記の地位におって仕事をつづけることにした。」

 私の小田=金総書記の夢がここまで来たところで、私は夢から醒めた。醒めて何かさわやかな気がしたのは、この夢、最後の無責任的責任の取り方はいただきかねたが、この悪夢に満ちた、悪夢が連続するような世界で、全体として、なかなか痛快でいい夢だったからだ。この夢が正夢になれば、世界は少しはましなものになる。これはたしかだ。

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