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第8回(2007.03.08)
若狭、小浜の読書会のことから
昨年開寺千二百年を迎えた若狭、小浜の古刹明通寺住職中嶌哲演氏はまさに彼のそのありようゆえに原発反対運動を献身的につづけられている篤実な仏教者だが〈世には仏教者ならぬ坊主は山といる。まして篤実な仏教者なるとどれほどの数いるのか〉、今、一月に一度、近在の読書人を集めて読書会を開かれている。今をはやりの本を取り上げて、派手に論じ合う会ではない。じっくり読んで、じっくり考える。本もそれに値する本だ。そうした会としてある。読書人ということばも、そうした会にふさわしいことばだ。
昨年暮れ、私が昨年秋に出した「玉砕・Gyokusai」〈岩波書店・二〇〇六〉をその読書会が取り上げてくれたので、小浜まで招かれて出かけた。会は、一夕、古刹のつい近くの宿屋に、老若男女、十数人が来て、開かれた。
「玉砕・Gyokusai」は、その題名「玉砕」の私自身の小説、小説の英訳をもとにしてつくられてイギリスのBBCワールド・サービスが一昨年八月六日「ヒロシマの日」(BBCはその日をそう呼んでいる)に文字通り全世界に向けて放送したラジオ・ドラマ「Gyokusai」の日本語訳台本、英訳者、アメリカの日本文学研究家ドナルド・キーンの英訳に対する序文、私と彼との玉砕にかかわっての対話、さらには「玉砕」を書いた私と「Gyokusai」を書いたイギリスの劇作家ティナ・ペプラーそれぞれの「なぜ書いたか、いかに書いたか」のエッセイよりなる日米英三人の著者による共著の本だが、なぜこの共著をつくったかについて、私が本につけた帯で次のように書いている。
「『玉砕』という人間のもっとも非人間的な行為を媒介しての日英米三人共著のこの本が、戦争について、国家について、世界について、歴史について、あるいは文学について、そして何より人間について、『九・一一』以後の世界において今一度あらためて考える手がかりになることを、私は共著者のひとりとして期待したい。『九・一一』以後の世界においても、『玉砕』は『特攻』とともに、今も、いや、今さらに世界大に拡がる新しいかたちで残りつづけている。共著者三人はその共通認識と憂いをもつ。
その共通認識と憂いとともにこの共著はかたちづくられた。」
読書会ではまず中嶌氏が自分の感想と意見を述べたあと、参加者がそれぞれ同じことをした。参加者には自営業の人もいれば会社員もいれば大学生もいれば主婦もいれば女性の牧師さんもいれば定年退職の元教師もいれば――というぐあいに多士済々、共通するのは熱心、真面目な読書家であることだろうが、確かに彼らの感想、意見は聞いていてそれぞれ面白かった。ただニ、三気にかかることもあった。
ひとつは、アメリカ滞在の体験ももつ良識のあるすぐれた軍人の日本守備軍司令官を主人公にして硫黄島の「玉砕」を描いたアメリカ映画がそのころチマタで大きく取り沙汰されて来ていたせいか、ひと口に言えば、ことの是非はともかく日本兵たちは立派に戦って死んだのだ―という「玉砕」観にわが中嶌氏の読書会の参加者たちも大きく左右されているように見えたことだ。これでは「玉砕」はただ美化されて、その根源にある、あった悲惨は看過されてしまうことになる。
「玉砕・Gyokusai」はちがっていた。たしかに兵士たちは立派に戦って死んだかも知れないが、小説、ラジオ・ドラマ、あるいは対話もそれぞれにそれを描き出そうとしたが〈小説の英訳者、私との対話の相手のキーンはアッツ島での「玉砕」戦のアメリカ側からの参加者だった〉、同時にその根源にある、あったことの是非を問いただそうとしていた。それは兵士たちの死を決して美化され得ない悲惨として受け止めることだった。
そうじて言って、女の参加者にはなかったが、読書会の男の参加者には自分を最期に覚悟の自刃を遂げる司令官に引きつけて考えて、自分をただそこで無意味に戦わされて虫けらのように死ぬほかはなかった兵士としてとらえない人が多いように見えた。「玉砕/Gyokusai」の主人公たちは、武士道の鑑めいた司令官ではなく、ただの虫けらの兵士たちだった。
私は「玉砕・Gyokusai」の「なぜ書いたか、いかに書いたか」のエッセイのなかで「玉砕」の悲惨の根源にある前天皇の戦争責任の問題について長く頁を費やして書いた。しかし、ふしぎなことに、すでに前天皇の平和のシンボルとしての位置、またイメージが人々の心に定着してしまっているのか、読書会の参加者のなかでその問題を口にした人は皆無だった。私がそれを指摘すると、そう言えばそうでしたなと、何人かが言った
読書会のあとしばらく経って、参加者のひとりが書いて来た。
「僕は正直今回小田さんの話を伺うまで、なぜ中国や韓国が日本の総理大臣の『靖国参拝』にあれだけ猛烈な拒否反応をするのか不思議に思っていた。日本がこれから再び軍事大国化することはありえないし、総理大臣も『二度と過去の過ち、戦争を繰り返さないようにとの誓いをもって参拝している』と明言している。なのになぜ、それが特殊な性格の神社とはいえ、たかだか神社に参拝したくらいでああも騒ぐのか、どうしてそれが重大な外交問題になるのか、それほど目くじらをたてるほどのこともないだろうと、正直僕は思っていたのだ。」
「しかし、小田さんが『あのころ〈昭和16年頃〉と今の空気はとてもよく似ている.あの頃もちょうど今みたいな感じだった。戦争に突入前や戦時中といっても普段と、つまりそれまでの生活とそんなにガラッと変わるものではない。どうもその頃のイメージというと、街中にはいつも軍歌が鳴り響き、みんなが日本の勝利をただひたすら祈り、もうどこを向いても戦争一色、というそんな情景を想像しがちだが、実際はそんなことはなかった。それは今のように、ごくありふれた〈と思われる〉日常性の中で進行し、決定され、そして突入した。』
と仰られた時、僕はハッとなった。僕の戦争突入前や戦時中のイメージというのはまさに今小田さんが仰られたようなどこを向いても戦争一色、だったからだ。そしてそれは日本国中が狂気に憑かれたような、極めて特殊な時代であったと僕は勝手に思っていたのだ。狂っていたからこそ、あんな馬鹿げた戦争を仕掛けて大敗したのだと僕は思っていたのだ。ところが実際はそうではなかった。あとから見れば狂ってるとしか思えない恐ろしい決定は、ごくありふれた〈と思われる〉日常性の中でなされたのであり、そしてその時代の雰囲気が今ととても似ている、というのは僕にとってかなりショッキングなことだった。」
「僕は当時のことを知らないから勝手にそんなイメージをもっていて、だから『日本がこれから再び軍事大国化することはありえない』つまり『私達は狂っていないしこれからも狂わない』と勝手にこちらの論理で思い、なのになぜ、と中国や韓国を不思議に思うわけだけれど、中国や韓国は当時と今の空気の相似を嗅ぎ取り、危機感を強めるのだろう。彼らは今でもはっきり記憶しているのだ。あの恐ろしき侵略戦争が、どのようにして始まったかを。そしてその戦争によってどれだけ深く、文字通り身も心も傷つけられたのか、その傷の深さに、私達日本人は鈍感すぎるのだろう。僕は今、自分の無知と思慮の浅さを深く恥じ入りたい気持ちである。」
私がこの読書会の参加者の一文を読んで、さらに考えたことは、現在の日本を過去の日本と対比して考えることも必要だが、もうひとつ、第一次大戦後のドイツで、理想的な憲法をもち、その政治原理に基いてたぐい希な民主主義国としてあった、そのはずだったワイマール共和国をぶっ壊してヒトラーのナチ独裁強権政権が登場してきたころのドイツのことも、今、私たち日本の市民はあらためて考えてみるべきでないかと思った。
ナチ・ドイツは強制収容所の設置やらユダヤ人虐殺やらヨーロッパ各地各国への侵略やらで、あまりにも暴力的イメージが強すぎるせいか、ヒトラーたちナチのワイマール共和国ぶっ壊しの政権奪取もすべて暴力的に行なわれたと誤解しがちだが、ここで重要なことは、ワイマール共和国からナチの「第三帝国」への移行は、たとえナチが創設した「SA―突撃隊」などの暴力行使、その威嚇などはあっても、大筋のところでは、選挙の結果に基いた、すくなくともその体裁は整えた、議会制民主主義のルールに基いた「政権交代」だったことだ。移行は決して暴力集団、武装勢力による権力奪取、クーデターではなかった。あくまで、議会制民主主義のルールに基いた、そこから逸脱していないとたぶん一般の眼に見えた、そのかたちで平和裡に行われた「政権交代」だった。
このヒトラーの「第三帝国」の独裁強権政治の確立にとって最大の支障となるのは、民主主義の理想を説いた「ワイマール憲法」だったが、ヒトラーは、廃止も「改憲」も主張することなく、「国民と国家の困窮を救う」ために一時的に憲法を棚上げにして政府に全権を委任するという「全権委任法」を議会で多数決で成立させることで、この最大の支障を除去した。まさに議会が、いや、民主主義が民主主義を抹殺したのである。
このあたりの事情を日本の市民はよくわきまえていないのでないかと、これは私が言うのではない、今現役の大学生の娘が言うのだが、学校ではだいたいが現代史は受験に必要ないとして教えないし〈彼女は自分で勉強したと言う〉、教えてもそのあたりのことは十分に教えていないのでないかと自分の高校での体験に基いて言う。
私がこれを今大きな問題だと考えるのは、私が子供だったころの事態のまえにあった日本は私の言い方で言えば「天皇制近代国家」であっても、決して「民主主義近代国家」ではなかったからだ。かつての日本にもなるほど議会があり選挙もあった。しかし、その基本にある、あるべき民主主義はなかった。「天皇ハ神聖ニシテ犯スヘカラス」を第一条とする帝国憲法はあっても「主権在民」の現行の日本国憲法はなかった。それは、現在の事態は私が子供だったころの事態よりも、もしかするとワイマール共和国を「政権交代」してナチの「第三帝国」が出現して来たドイツの事態により似ているのではないかということだ。
もちろん私はここで安倍政権をせっかち、乱暴にヒトラー政権になぞらえるつもりはない。しかし、現行の憲法を「改憲」してまで、「改憲」を彼の政策の「公約」に掲げてまでして彼の「美しい国」を実現しようとする政治姿勢には、「ワイマール憲法」を「全権委任法」を議会に決めさせて彼の「第三帝国」を実現して行ったヒトラーの政治姿勢に合い通じるものがある。
ワイマール共和国から「政権交代」による「第三帝国」への移行は初めのうちはよかった。すくなくとも、何も大きな問題はなかった。そう多くの人の眼に見えていた。移行を喜ぶ人たちも多くいた。しかし、事態はどう変わって行ったか。それは歴史の展開の「その後」がよく示していることだ。
後年彼自身の体験を根にして、「第三帝国の興亡」と題したナチ・ドイツの包括的歴史を書いたウイリアム・シャイラーは当時ベルリンにいたアメリカのジャーナリストだが、そのあいだ克明に日記をつけていて、のちにその1934年から1940年までの日記を「ベルリン日記」と題して発表した。
読んでいると、当時のふつうのドイツ市民が事態の推移をどう見ていたかがよく判る。狂熱的にそれを歓迎していたのもいたし、悲観的に見ていた人たちもいたが、大部分は何ごともなかったかのように、何ごとも起こらないかのようにして暮らしをつづけていた。
ヒトラーたちも、何ごとも起こらぬ、事態は変わらなくつづく、起こることがあればいいことばかりだ―とくり返してきわめて説得的に語った。
一九三五年三月一六日、「第三帝国」ドイツは徴兵制をともなう画期的な再軍備計画を発表したが、シャイラーの「ベルリン日記」によれば〈引用はすべて、一九七七年の筑摩書房版の訳文による〉、それにかかわっての彼らの「党声明」は「ドイツ政府はドイツを再軍備するにあたり、戦争を目的とした攻撃用のいかなる兵器をも新たにつくる意図はなく、それとは反対にもっぱら防衛用の兵器に限定し、それによって平和の維持に資するつもりである。こうすることで帝国政府は、再び自らの名誉を取り戻したドイツ国民が、独立した平等な国民として他の諸国と自由かつ公開の協力関係に立ちつつ世界平和に貢献することが許されるようにとの、確固たる希望を表明するものである」と述べていた。
シャイラーはこの「党声明」を紹介したあと、「日記」の地の文で次のように書いた。
「今日話をしたドイツ人は、ひとり残らずこの箇所をすばらしいとほめた。私の支局のあるドイツ人は、ナチではないが、こう言った。『世界はこれ以上立派な平和提案を期待できますか?』確かに立派に聞こえることは認める。しかしエバットは繰り返し信用してはだめだと警告する。騙されないよう私も用心したい。」
それから二ヵ月後、一九三五年五月二一日の「ベルリン日記」は次のように書いている。
「今夕、ヒトラーは帝国議会で堂々たる『平和』演説をぶった。これが世界の世論、なかんずくイギリスの世論に、与えて然るべき以上のいい印象を与えはすまいかと心配だ。この男は実際なみはずれた雄弁家だ。そしてヒトラー自身に選ばれたメンバーばかりの国会の雰囲気の中で、ソーセージみたいな猪首といがぐり頭と褐色服の六百人あまりのイエスマンたちが、彼の話の殆どひと区切りごとに起立してかっさいするところを見ていると、ヒトラーが彼に耳を傾けるドイツ人には確かに説得力を発揮していることが分かった。いずれにせよ今夜の彼はまことに好調で、これなら彼の提案は――十三の提案からなる――多くの人を納得させてしまうだろう。しかもそれはかなり驚くべき提案で、きわめて巧妙につくられている。
次第に本論へ話をもりあげていきながら、ヒトラーはこう絶叫した。
『ドイツは平和を必要とする…ドイツは平和を欲している…われわれはひとりとして他を脅かすつもりはない』オーストリアについては、『ドイツはオーストリアの内政に干渉したり、オーストリアを併合したり、独墺合邦を締結したりする意図はないし、それをのぞんでもいない。』」
このすでにオーストリアについての虚言をふくむ発言のあと、ヒトラーはのちに彼が破り遵守しなかった提案やら提案やらを十三項目にわたって、ヒトラーはシャイラーの「日記」の表現で言えば、「ゆったりと落着いた、自身ありげな調子」で、「殆ど十時近くまでしゃべりつづけた。」
この始まったばかりの「第三帝国」の現実のなかで、すでに苦難にさらされている人たちはいた。シャイラーは一九三五年四月一一日の「日記」のなかで書いている。
「大戦中は前線で祖国のために戦ったユダヤ人で成功した弁護士であるS博士が、ゲシュタポの監獄、コロンビア・ハウスで数ヶ月を送ったあと、きょう突然私たちのアパートに姿を現わした。テスが家にいた。彼女の話だと、彼はひどい様子で少し頭もおかしかったが、家に帰って家族と顔を合わせるのをいやがっていたところからすると、明らかに自分の状態を自覚していたらしいという。テスはウイスキーを飲ませて元気づけ、励まして家に帰らせた。彼の奥さんはこれまで長いこと神経衰弱すれすれの状態に追いつめられていた。彼にたいする告発は、彼がユダヤ人か、片親だけユダヤ人の混血だということ、それにテールマンの弁護を手伝おうと申し出た数名の弁護士の一人だったこと、こんなことのほかにはなにも理由がなかったそうだ。最近ではわれわれのところにたくさんのユダヤ人がやってきて、イギリスかアメリカに脱出したいからと助言や援助を求める。だが残念なことに、われわれがしてあげられることは殆どない。」
しかし、多くの人はこうした苦難とは無関係に暮らしていた。あるいは、たぶんユダヤ人でさえがそう考えて生きていた。シャイラーの「日記」の次の日付は四月二一日だが、その日の「日記」は次のようなものだ。
「復活祭の週末に休暇をとる。ホテルは主にユダヤ人でいっぱいで、こんなにも多くのユダヤ人がまだ景気が良く、心配などしていないのを見ると、いささかびっくりする。彼らはあまりに楽観的すぎる、と思う。」 |
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