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2000年4月23日号
3つの世紀 共存するベトナム 解放25周年 消えた「惨」
私の「アジア」への旅は、一九六〇年、アメリカ留学の帰途、ヨーロッパを経て、インドヘ足を踏み入れたときから始まっている。長い「アジア」とのつきあいだが、いま一度、「アジア」への旅に出ることにした。新しい「発見」の旅、そして「再見」の旅だ。
まず、ベトナム。自分がキモイリとなって参加したベトナム反戦運動の体験があって、私にはベトナムは「アジアの原点」としてある。いや、私自身のひとつの「原点」だ。
最初に私が行ったの六八年、ベトナム戦争のさなかのことだ。カンボジアからラオス経由、国際監視委員会のチャーター機で「生命保証せず」に「OK」の一札を入れてニ日がかりで飛んだ。危険を避けて夜おそく、着陸の一瞬だけ照明がついた滑走路に、オンボロのプロペラ機が滑り込んだと思ったら、真っ暗な機中に南方の花のかぐわしい匂いがした。同時にぬっと歓迎の花束が突き出された。
ニ度目の旅は八ニ年。ベトナム戦争はすでに七年前、七五年にベトナムの勝利で終わっていた。私は「南北」の別がとれたベトナムのサイゴン改めホーチミンヘ行った。しかし、ベトナムの勝利はすべての力を使いはたした上での勝利―まさに「惨勝」だった。「惨」の跡は歴然と残っていた。ホテルを出ると、子供がむらがって来て、「ギブ・ミー・ワン・ダラー」と手を出した。
三度目は八九年。「惨」の跡はかなり薄らいで見えた。物ごいはいたがもう「ワン・ダラー」と手を出す子供集団の姿はなかった。しかし、ベトナム経済は、旧知のハノイの作家のことばで言えば「高いビルの窓から落ちた紙きれ」だった。急落、地面に落ちかかったところで風が吹いて舞い上がる。舞い上がったかと思うと、また落ちる。
そのあとの旅が今度の旅だ。七五年四月三十日に南ベトナムの大統領官邸に「解放戦線」の戦車が突入した―そのときからこの四月でニ十五年だ。その「解放二十五周年」に、私はベトナムを旅して歩いた。
旅の印象をまとめて言えば、「惨」がようやく完全に姿を消しつつあるというものだ。都市の街路にはベトナム人が「ホンダ」と呼ぶバイクが氾濫、高層、超高層の建物があちこちに建つ。しかし、もっとも大事なことは、ここ十数年のドイモイ政策のまれな成功によって、今、人々が生活の安定を得るとともに、真面目に働けば、明日の暮らしはよくなるという気持ちを持ち始めていることだ。
「ベトナムには、今、三世紀があるよ。十八世紀、十九世紀、二十世紀」。ベトナム人の友人がホーチミンの街路を見ながら言った。ベンツが走り、「シクロ」、馬車、手押しの荷車がのろのろ動き、天秤棒でマンゴーをかついで、笠をかぶった農婦がゆっくり歩く。道路の両側はずらりと並ぶ商店の列だが、昔ながらの食い物屋やら雑貨屋やらの隣が最新流行のブティック、さらにその隣はインターネット・カフェ。「二十一世紀までもあるよ」と友人は言う。「だから、今、ベトナムは忙しい」
たしかに、この何世紀もの共存、ひしめきあいは、ベトナムの活力をかたちづくっている。そして今、ベトナムは、二十三歳前後の「戦後派」の若い世代が人口のもっとも大きな部分を占める。彼らには「惨」の跡はない。
この「惨」の消えたベトナムの未来について、あれこれ予測できる。しかし、もっとも重要なこととして確実に言えることは、すべてが「平和」あってのこと―この「平和」を今ようやくベトナム人たちは確実に手にし得たように見える。 |
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