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2002年1月23日号
日本の二つの「遺産」 中国・ハルビン 問われる「不忘」への意志
今、「世界遺産」がよく取り沙汰(ざた)されるが、ハルビン近郊には、日本の過去にかかわって「遺産」が二つ残されている。
ひとつはもう今は近郊というより市内になっているが、平房の「侵略日軍第731部隊遺址(いし)」だ。細菌戦のための実験、製造が行われ、「馬魯他」(マルタ)と称された中国人、蒙古人、朝鮮人、ソビエト人三千人余が「生体実験」「生体解剖」で殺された犯罪の現場の「遺址」だ。もうひとつは、ハルビンから西へ車で2時間の距離の方正にある「日本人公墓」。こちらは日本が自国の人間をいかに苛酷(かこく)に処理したかの過去を示す現場の「遺址」としてある。
1945年、敗戦後、その地域に数多くいた開拓民はそのまま文字通り「棄民」として棄(す)てられた。成人男子は「現地召集」されていたから、「棄民」はすべて女性、子供、老人だった。1万5千人が原野をさまよい歩き、飢え、多くが力つきて倒れた。原野に死体は散乱した。
1963年に、周恩来が命じて、中国政府は原野の2千人分の遺骨と、近くの炭鉱で行きどころがなくなって集団自決した500人の遺骨を納めて集合墓地を建てた。それが「日本人公墓」だが、小山のすその松林のなかにひっそりとひろがるその集合墓地には、2千人、500人の遺骨をそれぞれに納めた円丘二つのまえにひとつあて「日本人公墓」と印刻した墓碑が立っている。
自国日本によって「棄民」にされた開拓民の多くが中国人によって救われ生きのびた。そのときはじめて中国人と日本人とのあいだに人間と人間の関係が生まれた――と開拓民の問題を調べて小説に書いた「大雪谷」(日本語訳はないが韓国語訳はある)の著者雪墨氏は言う。「棄民」の日本人女性には中国人と結ばれて家庭をつくったものも少なからずいた。集合墓地には、もうひとつ円丘の墓があった、「中国人養父母公墓」――「残留孤児」たちが拠金してつくった。
「日本人公墓」の扉には「中日友好」「永不再戦」の文字、「中国人養父母墓」の扉には「永不忘」「養育之恩」の文字がある。
「不忘」の文字はそこにあるだけではなかった。集合墓地の建物のなかの日本の侵略戦争にかかわっての展示の中心に、その2文字が大きく出ていた。もちろん、この2文字は「侵略日軍第731部隊遺址」にさらに激しく明瞭(めいりょう)によみとれたことだ、私はその「遺址」を最初1984年に訪れている。そのときには、敗戦直前に証拠隠滅のために爆破された施設はほとんど手つかずに放置されていて、このままではいつかは消滅して忘れ去られるのではないかと私は危惧(きぐ)したのだが、今は博物館となった元司令部のあとを中心として「不忘」の強い意志で整備されている。
同じことは、今度の中国の旅のなかで訪れた北京近郊の盧溝橋(ろこうきょう)にも言えた。私は同じ1984年にその日本の本格的な中国侵略発端になった土地を訪れているのだが、そのときにはそこには日本の侵略の過去を示唆するものはまず見えなかった。しかし、今は、近くに広大な「中国人民抗日戦争記念館」が建ち、そこはまさに「不忘」の侵略戦争の「遺址」だ。
1984年の中国に見えなかったものは、たとえば、ハルビンにも北京にも林立する高層、超高層の建築であれば、その下を闊歩(かっぽ)する派手な服装の女性たちの姿だ。それはそれだけ中国がゆたかになったということだが、そのゆたかさは過去の歴史のゆたかさのなかへの埋没、忘却を意味していない。逆に私が今度の旅で感じとったことは、中国人の側での日本の侵略の過去に対しての「不忘」の強い意志だ。その彼らの強い意志にまともに対するのは、こちら側、日本人の側での自分たちの過去に向かっての「不忘」の意志と努力においてしかない。 |
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