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2001年8月22日号
多民族国家と未来 カザフスタン 「壊された世界」再生の重荷
私が中央アジアのカザフ――当時はまだ旧ソ連領だったカザフスタン共和国に初めて出かけたのは73年のことだ。しかし、それは首都アルマータ(今の名はアルマティ。そして、今、首都はアスタナ)で開かれた「アジア・アフリカ作家会議」に出席するために出かけただけのことで、アルマータまで行きながら、カザフの東北部セミパラチンスク近くの原野で49年以来89年まで数百回にわたって行われた核実験について私は何も知らなかった。そして、会議の日本語通訳に朝鮮人が来ていても、なんの疑問ももたないまま立ち去っていた。
これでは、その世界で9番目に広い、カザフ人、ロシア人の他に本来中央アジアとなんの関係もないドイツ人や朝鮮人をふくめて百余の民族が住む「多民族国家」を訪れたとは言えないにちがいない。その意味で私がカザフを訪れたのは88年、再度出かけたときが最初だと言ってよいだろう。
そのときもアルマータでの会議に私は出席するために出かけた。会議は「国際詩人会議」と題した会議で、詩人でもない私が招かれたのには何か訳があると判断して出かけたのだが、わけはすぐ判った。旧ソ連各地から来た詩人や作家は優雅に文学を論じるために来ていたのではなかった。
会議は、年来の自然破壊の強引な農業生産のおかげで水があらかた乾上がってしまった「アラル海を救え」の政治集会だった。「ペレストロイカ」が本格化していたころだ。「救え」の叫びは当然政府に対する激しい糾弾になる。私のような外国人を招いたのは、糾弾に国際的なハクをつけるためだったにちがいない。
それは判ったが、それにしてもなぜ私が――謎はやがて解けた。レセプションの席でカザフの作家が私のまえに来て、私の小説「HIROSHIMA」(81年刊。現在は講談社文芸文庫)をロシア語訳で読んだ、ぜひ来てもらいたいと思ってこの会議に招んだと小声で言ったあと、自分はセミパラチンスク近くで生まれ育った、セミパラチンスクはニューメキシコやネバダと同じことが起こった土地だとつづけた。彼の言葉の意味はすぐ判った。しかし、核実験は政府糾弾のその会議においてさえまだ「禁句」だった。その作家――ロラン・セイセンバエフも、彼の言い方で言えば、彼の「キノコ雲の下で生まれ育った」体験を書いてはいなかった。いや、まだ書けなかった。
彼や詩人のスレイメノフが核実験の中止を正面きって求める「ネバダ・セミパラチンスク運動」を始めたのは、翌年89年のことだ。運動はたちまち大きな市民運動となってひろがり(私はこの運動は文学者の「アンガージュマン参加」の画期的な実例だと考える)、ついには中止を実現し、91年の独立に際しては「非核国家」としての独立を政府に宣言させるまでになった。私はその過程のなかで90年にカザフを訪れ、セイセンバエフとともにセミパラチンスクまで出かけて、核実験による「被曝」の2村サルジャル、カラウフで「被曝者」に何人も会った。たとえば、手足の極端に短い39歳の女性。35歳の男性は大人の顔をし大人の生殖器を持っていたが、からだは赤児だった。
今年6月末から7月にかけてカザフに出かけた私は、何をおいてもまずセミパラチンスクまで行き、「被曝」の2村まで足をのばした。2村はどちらもが何ごともなかったように平和に静まりかえって見えた。
しかし、活気はなかった。子細を書く余裕はないが、「被曝」の重い過去をひきずって、いったいこれからどうすればよいのか――一戸一戸の家も村全体も途方に暮れていた。そう見えた。
私はアルマータ改めアルマティでセイセンバエフに再会し、私の「被曝」2村の印象を彼に告げた。彼はカラウル出身だが、89年に「世界が崩壊した日」と題した小説を53年の水爆実験の「被曝」体験に基づいて書き、発表している。「世界は一度壊されたのだ」と私の話のあと彼は言った。 |
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