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2000年6月19日号
カンボジアに自由とゆとり 「革命」の傷 消すにぎわい
今年二〇〇〇年新年のアンコール・ワットは奈良の大仏さんになっていた―とは、この四月、ベトナムの旅のあとカンボジアヘ行き、今やそれこそ東大寺とともに「世界遺産」ともなった十二世紀建立の石造大寺院を訪れたとき、私の心に自然に湧き上がって来た感慨だが、この奇妙な感慨にはいくつか注釈が必要なのにちがいない。
まず、四月に訪れたのに、なぜ、新年か―だが、それは大寺院へ行った四月十三日がカンボジア古来の暦では、「元旦」であったからだ。日本流に言えば「旧正月」だが、今もカンボジアでは、十三日を皮切りに「カンボジア正月」三が日を祝う。家族、親類縁者集って盛大に御馳走を食べ、街頭に出て通行人ともどもお祝いの水をかけ合う。
私も街でさんざんその被害に遭ったが、面白いのは、これは毎年、変わるものらしいが、年が変わって新年になる時刻が正確に定められていることだ。今年は午後四時四十八分―私はまさにその時刻にアンコール・ワットにいた。年が変わる瞬間には空の色でも壮大に変わるにちがいないと私は大寺院のテラスで空を見上げていたが、一向に色は変わらずそのまま年は移った。そのあと私はカンボジアにしばらく潜在したが、何ごとも起こらず変らず、時は過ぎた。
しかし、二十五年前、一九七五年のカンボジアではそうは行かなかった。「カンボジア正月」三が日の翌々日、四月十七日にはロン・ノル政権との内戦に勝利した「クメール・ルージュ」軍が首都プノンペンを「解放」、その日を「零年」として、ポル・ポト「社会主義革命」政権の「革命」の名の下の圧制が始まったからだ。
政権の支配は三年八カ月続き、そのあいだに処刑、餓死、病死あわせて百五十万人ないし三百万人(最近の調査では、一時否定されていた三百万人説がまた有力になっている。当時のカンボジアの全人口は八百人弱)が「革命」の圧制の犠牲になった。
子細を論じるつもりはない。圧制は、そこにどのような名前、大義名分がつこうがまちがっている。許しがたい。とにかくカンボジア人の五人ないしニ・五人にひとりが消えたのだ。アンコール・ワットを案内してくれた若者の父親は、若者がまだ母親の胎内にいるあいだに殺されていた。プノンペンで大虐殺の跡地まで乗った車の運転手の家族は全員が餓死あるいは病死している。「誰にでも起こったことです」。彼はカタコトの英語で静かに言い、「しかし、世の中は変わりました」とつけ加えた。
たしかに世の中は変わったにちがいない。かつては外国人の観光客しか訪れていなかったアンコール・ワットに大量のカンボジア人が来ていた。正月とあって、プノンペンはじめ各地から家族連れが.着飾ってやって来ていて、あちこちに円陣をつくり、カメラをかまえあい、しゃベり、騒ぎ、大寺院の内外は彼らの群れでにぎわう。
「文革」後数年たっての中国でも、私は名所、旧跡での中国人観光客による同じにぎわいを見ていた。そのとき中国人はかつては彼らになかった行きたいところに旅行できる自由と経済的ゆとりをもち出していたのだが、カンボジア人も苦難の年月のあとようやくその自由とゆとりを手にし始めているようだ。
にぎわいは眺めていて心あたたまるものだったが、同じ正月でもあれば、どちらもが「世界遺産」の大寺院であるという連想があってのことだろう、私の心に自然に涌き上がって来たのが「アンコール・ワットは奈良の大仏さんになっていた」の感慨だった。アンコ一ル・ワットでのそのにぎわいは、私が毎年「初詣で」に出かける奈良の大仏さん―東大寺内外の正月のにぎわいにそれほど似ていた。カンボジア人も彼らの「カンボジア正月」の「初詣で」に来ているのにちがいない。
そう思ったとたんに水しぶきが顔にかかった。例のお祝いの水かと思ったら、そばの家族連れの円陣から小さな坊やがかわいい人間ホースの筒先を私にむけていた。こいつ、大物になるぞ。しかし、坊や、ポル・ポトにはなるなよ。 |
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