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2001年5月16日号
「ソンビ」と出会うたび 韓国 官の腐敗堕落に抗う激しさ
江陵(カンヌン)へ行った。「東海」(日本海(トンハ))に面した東海岸の古都である。お札に肖像が出ている16世紀、李朝中期の大儒学者李珥(イイ)の生地で、高校生が修学旅行で訪れる。私は韓国の高校生ではないが、出かけた。
江陵を訪れたのは2度目である。最初は64年、韓国を初めて訪れたとき、今ならソウルから車で3時間半の行程だが、バスで11時間かかって行った。まだ朝鮮戦争のあとが残っているところで、山中の谷では橋が落ちていた。バスは水中に突っ込んで渡った。夜、街で出会った紳士が日本語で私を呼びとめ、古い楼閣に連れて行った。鏡浦湖(キョンポホ)の月の眺めで名高い楼閣である。当時日本語を話す人は多かったが、紳士は「今ケイオーはどうなっていますか」と突然訊ねて、私を驚かせた。「慶応」を出た人であった。「解放」後、初めて日本人に出会ったのだ、と言った。
再訪の旅で江陵に着くとすぐ、すぐ湖近くの豆腐料理の店でこの地の名物の豆腐を食べた。海水を使って作る伝統の豆腐だ。味に野趣があった。江陵は私の愛読小説の「洪吉童(ホンギルドン)伝」の作者許?(ホギュン)の出身地で、豆腐料理の一角から少し行くと、彼の詩碑が立ち、さらに少し行くと、彼の姉の当時日本でも知られた女流詩人?蘭雪軒(ホナンソルホン)の屋敷に出た。男の館(やかた)、女の館に分かれた当時のままに残されていたが、今は無人。門の前で寝そべっていた犬が起きあがって案内役をつとめた。
許?は李珥に少し遅れての同時代人だが、李朝儒教体制の身分差別に抗し、その腐敗堕落に怒り、自由と解放を求めてたたかった「ソンビ」だった。「ソンビ」は「官」に入らなかった、あるいは、「官」をやめた、やめさせられた,「自由人」の文人のことだが、許はときにはその才覚によって重要視されて「官」の相当の地位につき、ときにはその自由な言動によって危険視され、放逐された。
その波乱激しい人生のなかで、名門の出ながら体制に抗って「官」と富者から奪い、貧者に与える「活貧党」と称する盗賊=義賊の首領となった「洪吉童」を主人公として、彼の思想を体現する「悪漢小説(ピカレスタ)」を朝鮮文学史上はじめて「ハングル」で書いた。この小説がいかに広く、深く読まれたかは、李朝末期、反抗、反乱の農民闘争が「活貧党」と自らを称したことで分かるにちがいない。この農民闘争はやがて「半日」義兵闘争につながる。許?自身もただ小説を書いただけではなかった。この反体制の「ソンビ」作家は実際に反乱を計画、発覚して捕らえられ、車裂き、八つ裂きの刑死をとげた。
私と江陵再訪の旅をともにしたのは、現代韓国の重要・人気作家の黄晢暎(ファンソギョン)。彼も体制に抗して自由な言動をして来た現代の「ソンビ」作家だが、許?同様に盗賊=義賊の「張吉山(チャンギルサン)」を主人公として大作を書き、大人気を博した。そのあと「北朝鮮」を訪れ、そのかどで「亡命」生活を送り、帰国後は7年間牢屋に閉じこめられた。いや、もうひとりいるよ―と彼は私に言った。「日帝時代」に、韓国の被差別部落民「白丁(ペクチョン)」出身の盗賊=義賊の「林巨正(イムコクチョン)」を書いた洪命熹(ホンミョンヒ)は独立運動で「日帝」の牢獄に入った。これが韓国の文学・思想の本質とまでは言うつもりはない。しかし、その一端は3人の「盗賊=義賊ソンビ作家」の命運に極端に出ている。
いや、まだある。江陵には観光の呼びものの船橋荘(ソンギョジャン)という広大な「両班(ヤンハン)」の屋敷がある。歴代の持ち主は「官」に根をおいた「両班」で決して「ソンビ」ではないが、今もそこにすむ当代のご当主に会った。四十がらみの温厚な当代はあれこれ屋敷のさまを説明してくれるなかで「あれが呂運享(ヨウンヒョン)が学校を建てていたところです」と独立運動の大立者の名をこともなげに口に出し、「あそこで金芝河(キムジハ)がかくまわれていました」と、観光案内書に写真で出ていたりする蓮池の中の「活来亭(ファルシジョン)」という名の東屋(あずまや)を指さした。 |
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