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2002年2月20日号
中韓共闘の「旧址」 中国・上海 日本語の欠落に強い違和感
今、韓国では中国がはやり、中国では韓国がはやっている。先日、韓国の知人に電話したら、中国へ家族連れで出かけて帰って来たばかりだと言う。韓国も中国も、ついこのあいだは「春節」(旧正月)の休暇のときだった。韓国の新聞には「中国人観光客殺到」の大見出しが出ていた。
私のこの「続アジア紀行」の旅でも、万里の長城で韓国人の観光団に次々に会ったし、上海を一望する超高層ビルの展望台でも、韓国語はいくらでも耳に入った。
もちろん不況で激減したと言っても日本語も聞こえて来たが、今、上海には、日本人が行かない、その存在さえまったく知らないが韓国人ならたぶん誰(だれ)もが知っている、そして多くが訪れる「旧址(きゅうし)」がある。85年に上海を訪れたときには、誰にきいても所在がつかなかった「旧址」だが、今はホテルでくれた広告のいっぱいに入った無料の観光地図にも「大韓民国臨時政府旧址」とはっきり中国語と英語で明記されて所在が出ている。
「臨時政府」は、日本の植民地支配に抗して市民が起(た)ち上がった19年3月1日の「三・一蜂起(ほうき)」のあと、韓国内外の革命家、活動家が上海のフランス租界に集まって4月にかたちづくった韓国独立運動の拠点だった(フランス租界には日本の警察の力は及ばなかった)。以後、45年の日本の敗北、韓国=朝鮮の解放、独立まで(「日中戦争」の拡大とともに上海から重慶へ「臨時政府」は移動している)、内部抗争、分裂、堕落、資金枯渇、弾圧などあまた危機に直面しながらねばり強く活動をつづけた。
中国、韓国はともに日本に圧迫され、支配されてきた民族の国だ。この関係は日本に対する「共闘」を必然にする。中国の巨大な民族運動「五・四運動」の直接の引き金を引いたのは「三・一蜂起」だった――とは今多くの人が指摘することだ。「共闘」は中国人が韓国人を助け、韓国人が中国人を助ける「共闘」だった。20年代、「国共合作」下の中国革命の戦列には韓国人も多く参加した。
まず中国革命を勝利させ、その勝利の「共闘」の力で日本の植民地支配を崩壊させ、独立を達成する――この認識、理論の下、韓国人は26年に始まった「北伐」に多数参加し、そこでの大きな力になった。蒋介石の「上海クーデタ」のあと、追いつめられた共産党は絶望的な「起義」(蜂起)をくり返すが、その最後、27年12月の「広州起義」には韓国人250人余が参加し、大半が犠牲になった。
今、広州には「広州起義列士陵園」の広大な墓地があるが、そこには大きな石碑を収めた「中朝血誼(けつぎ)館」という名の一棟の建物がたつ。石碑に刻み込まれた碑文の末尾は「中朝両国人民的戦門友誼万古長青」。
上海の「臨時政府旧址」は街のなかの商店の並ぶ街路に面した見ばえのしない古びたふつうの建物だが、そこには今、韓国人の観光団が「巡礼」のように続々と訪れる。そこで耳にすることばは韓国語でなかったら中国語で、日本語はない。
しばらくそこにいるうちに、その日本語の欠落が奇妙なことにも何かおそろしいことであるように私に思えて来たのは、その「旧址」といい、「中朝血誼館」といい、そこで示されている中国人、韓国人の「共闘」がまさに日本相手にたたかわれたものであったからだ。しかし、どちらの「旧址」にも日本人はいないし、いないどころか、その存在もたいてい知らない。また知ろうともしていない。
日本で出ている中国の旅行案内の本には、今まず二つの「旧址」についての記述はない。「中朝血誼館」については、昔の案内書は書いていた。しかし、今は広東料理、料理店については子細にわたって書かれていても、日本に対する「共闘」の「旧址」は姿を消した。 |
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