作家
 小田 実のホームページ 朝日新聞連載 アジア紀行

■  2002年2月20日号
中韓共闘の「旧址」  中国・上海  日本語の欠落に強い違和感
■  2002年1月23日号
日本の二つの「遺産」  中国・ハルビン  問われる「不忘」への意志
■  2001年11月21日号
視点で動く「辺境」  カザフスタン  存在無視 中央アジアの悲惨
■  2001年10月17日号
大国の横暴の狭間で カザフスタン 容赦なく家追われる民たち
■  2001年8月22日号
多民族国家と未来 カザフスタン 「壊された世界」再生の重荷
■  2001年6月20日号
根張る小さなコリア 韓国 「時代に」耐え育てた教育の志
■  2001年5月16日号
「ソンビ」と出会うたび 韓国 官の腐敗堕落に抗う激しさ
■  2001年4月18日号
日本との関係の今 韓国 まともなつきあいの形成を
■  2001年3月18日号
「西洋」にどう向き合うか 日本の非 認めて謝罪を
■  2001年2月18日号
イラン革命と「ヨーロッパ」 「自らの価値」に得た自信
■  2000年12月24日号
イラン非暴力革命の自信と疲れ 21年ぶりの訪問の印象二論
■  2000年11月26日号
「亜世界」としてのインド 大波受ける「社会主義国」
■  2000年10月23日号
かっ歩する「インド英語」支配 形変えた西欧帝国主義か
■  2000年10月2日号
インドIT革命の裏に貧困 先端都市は大海の孤島
■  2000年8月13日号
自由で謙虚なベトナムの自信 発展の土台、平和を手に
■  2000年7月16日号
武力で強制できぬ主義主張 元指揮官の言葉に説得力
■  2000年6月19日号
カンボジアに自由とゆとり 「革命」の傷 消すにぎわい
■  2000年5月21日号
不屈な「南」のニワトリたち 独立後は「下からの力」に
■  2000年4月23日号
3つの世紀 共存するベトナム 解放25周年 消えた「惨」

2002年2月20日号
中韓共闘の「旧址」  中国・上海  日本語の欠落に強い違和感

今、韓国では中国がはやり、中国では韓国がはやっている。先日、韓国の知人に電話したら、中国へ家族連れで出かけて帰って来たばかりだと言う。韓国も中国も、ついこのあいだは「春節」(旧正月)の休暇のときだった。韓国の新聞には「中国人観光客殺到」の大見出しが出ていた。

私のこの「続アジア紀行」の旅でも、万里の長城で韓国人の観光団に次々に会ったし、上海を一望する超高層ビルの展望台でも、韓国語はいくらでも耳に入った。

もちろん不況で激減したと言っても日本語も聞こえて来たが、今、上海には、日本人が行かない、その存在さえまったく知らないが韓国人ならたぶん誰(だれ)もが知っている、そして多くが訪れる「旧址(きゅうし)」がある。85年に上海を訪れたときには、誰にきいても所在がつかなかった「旧址」だが、今はホテルでくれた広告のいっぱいに入った無料の観光地図にも「大韓民国臨時政府旧址」とはっきり中国語と英語で明記されて所在が出ている。

「臨時政府」は、日本の植民地支配に抗して市民が起(た)ち上がった19年3月1日の「三・一蜂起(ほうき)」のあと、韓国内外の革命家、活動家が上海のフランス租界に集まって4月にかたちづくった韓国独立運動の拠点だった(フランス租界には日本の警察の力は及ばなかった)。以後、45年の日本の敗北、韓国=朝鮮の解放、独立まで(「日中戦争」の拡大とともに上海から重慶へ「臨時政府」は移動している)、内部抗争、分裂、堕落、資金枯渇、弾圧などあまた危機に直面しながらねばり強く活動をつづけた。

中国、韓国はともに日本に圧迫され、支配されてきた民族の国だ。この関係は日本に対する「共闘」を必然にする。中国の巨大な民族運動「五・四運動」の直接の引き金を引いたのは「三・一蜂起」だった――とは今多くの人が指摘することだ。「共闘」は中国人が韓国人を助け、韓国人が中国人を助ける「共闘」だった。20年代、「国共合作」下の中国革命の戦列には韓国人も多く参加した。

まず中国革命を勝利させ、その勝利の「共闘」の力で日本の植民地支配を崩壊させ、独立を達成する――この認識、理論の下、韓国人は26年に始まった「北伐」に多数参加し、そこでの大きな力になった。蒋介石の「上海クーデタ」のあと、追いつめられた共産党は絶望的な「起義」(蜂起)をくり返すが、その最後、27年12月の「広州起義」には韓国人250人余が参加し、大半が犠牲になった。

今、広州には「広州起義列士陵園」の広大な墓地があるが、そこには大きな石碑を収めた「中朝血誼(けつぎ)館」という名の一棟の建物がたつ。石碑に刻み込まれた碑文の末尾は「中朝両国人民的戦門友誼万古長青」。

上海の「臨時政府旧址」は街のなかの商店の並ぶ街路に面した見ばえのしない古びたふつうの建物だが、そこには今、韓国人の観光団が「巡礼」のように続々と訪れる。そこで耳にすることばは韓国語でなかったら中国語で、日本語はない。

しばらくそこにいるうちに、その日本語の欠落が奇妙なことにも何かおそろしいことであるように私に思えて来たのは、その「旧址」といい、「中朝血誼館」といい、そこで示されている中国人、韓国人の「共闘」がまさに日本相手にたたかわれたものであったからだ。しかし、どちらの「旧址」にも日本人はいないし、いないどころか、その存在もたいてい知らない。また知ろうともしていない。

日本で出ている中国の旅行案内の本には、今まず二つの「旧址」についての記述はない。「中朝血誼館」については、昔の案内書は書いていた。しかし、今は広東料理、料理店については子細にわたって書かれていても、日本に対する「共闘」の「旧址」は姿を消した。

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