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2000年5月21日号
不屈な「南」のニワトリたち 独立後は「下からの力」に
私はベトナムヘ家族を連れて行った。中学三年生の娘と彼女の母親。ベトナム人の友人を案内役にして、他にひとり日本人の友人を加えて旅して歩いた。
農村へも行った。ベトナム人の友人が娘に言った。「きみたち日本の子供は金綱のなかのブロイラーのニワトリだが、ベトナムの子供は地べたを駆けまわるホンモノのニワトリだ」。友人は日本で暮したこともあれば、今も仕事で日本によく行く。独特の力のある日本語でそう言ってから、「クヮクヮクヮ」と鳴き声をしてみせた。こちらはどうやら日本語ではない。
たしかに村では子供がホンモノのニワトリ、ヒヨコよろしく地べたを駆けまわっていた。遊んでいるのではない。みんな、何かしら働いていた。ヒヨコがブタに餌をやり、大きくなってニワトリになったのが米袋をかついで運んで、みんな忙しい。「みんな、小さいときから働いで稼ぎ、自由、勝手に暮しを立てる。それがベトナム人」友人は自信ありげに娘に言った。
ゴルバチョフの「ペレストロイカ」がなぜうまくいかなかったのか。友人は私に言う。あれは「上からの改革」で、せっかく「自由にやれ」とゴルバチョフが号令をかけても、ロシア人は動かなかった。まさに彼らは長年の社会主義の金網のなかで「ブロイラー」になってしまっていたからだ。
ベトナムではちがった。えらいさんがちょっと目くばせするだけで、地べたのニワトリたちが機敏、柔軟に反応して、たちまち自由、勝手、そして不屈に動き出した。これが「ドイモイ(革新)」成功のかんどころだと私の友人は言う。
大事なことがニつあった。ひとつは、「ドイモイ」の自由経済政策が「下からの改革」―すくなくとも地べたのニワトリたちの動きに、しっかり土台をおいたものであったこと、もうひとつは、政策自体はベトナム戦争勝利、「南北統一」のあと「北」の政府が決めたことであっても、実際に「ドイモイ」を推進してきたのは、自由、勝手あるいは不屈の程度がはるかにたちまさる「南」のニワトリたちであったことだ。この「南」のニワトリたちの「ドイモイ」推進は政治にも力を及ぼして、「ドイモイ」をもはや後戻りできないものにした(現、前首相は「ドイモイ」推進の立役者であるホーチミン市長経験者だ。彼らはともに「南」の出身)。
以上は、現、前首相と同じ元来が「南」の私の友人の言ったことでもあれば、「北」の経済担当のえらいさんが別の言い方で口にしたことでもある。いや、「南」、ホーチミン市内の輪タク「シクロ」の運ちゃんがカタコトの英語で私に言ったことをまとめ上げればそういう意味のことばになる。
しかし、社会主義は?―
「私たちは柔軟なんです」と「北」の役人のえらいさんは言ったが、「それは役所と空港の建物の中だけにある」と「南」のニワトリのひとりが、自由、勝手、不屈の「南」の地べたのニワトリらしく、より的確なことを言ってのけた。
しかし、「ドイモイ」の推進、成功にしろ、あるいは、ニワトリたちの自由、勝手、不屈の動きにしろ、すべてはベトナム人たちが、フランスにしろアメリカ合州国にしろ、外国の支配勢力を放逐して自分の国の独立と自由を取り戻した上でのこと。そのための長いたたかいの果ての勝利あってのことだが、そのたたかいをたたかったのは、誰であろう、まず地べたの無名無数のニワトリたちだ。
ホーチミン市滞在の最後の日、私は同行できなかったが、娘は母親と友人とともに、「民族解放戦線」が二重、三重に地下にトンネルを掘って基地としてたたかった、同市近くの激戦地クチの戦跡に出かけた。娘は、帰ってきた時には黙り込んでいたが、あとでベトナムの旅でもっとも心動かされたのはクチだったと言った。 |
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