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2001年2月18日号
イラン革命と「ヨーロッパ」 「自らの価値」に得た自信
一九六〇年にはじめてイランを訪れたとき、私を驚かせたのは「ヨーロッパ」という見世物だった。街頭の見世物だが、オジさんが口上よろしくハンドルを回すと、のぞきメガネの奥で絵巻物が回転、ニューヨーク、パリの街景、豪華船の雄姿、「中流」の家族団欒の豊かな夕食、水上スキーの金髪美女―脈絡なく「ヨーロッパ」の場面が出現する。絵を描いたものではない。「ライフ」か何かの古雑誌から写真、広告を切り抜いて張っただけの巻物だ。それを子供も大人も金を払って見る。
そこから読みとれるのは、貧しい、おくれた国の人びとの、自分にはない進歩した「ヨーロッパ」の豊かな暮らしに対する切ない憧れだが、他人ごとではなかった。それからわずか十余年前、まだまだ貧しかった日本では、私の中学同級生の女生徒たちがアメリカ合州国の百貨店のカタログを「回し眺め」して自分にない豊かな暮らしに憧れ、ため息をついていた。
二度目、三度目にイランを訪れた七〇年代には日本はすでに豊かな「経済大国」になりつつあったが、イランも「石油大国」への道を突き進んでいた。見世物「ヨーロッパ」はすでに街頭から姿を消し、貧しいおくれたアラブ、アジアと手を切り、じかに「ヨーロッパ」とつながることで、豊かさ、さらには繁栄を実現しようと懸命になっていた。これが皇帝が強引に推進した「白色革命」だが、それがもたらす豊かさも繁栄も、結局、「ヨーロッパ」とつながることのできる上層のイラン人のものでしかなかった。そのつながりのない大多数のイラン人は豊かさ、繁栄の外に追いやられ、困窮、あげくのはてに起こったのが「イラン革命」「イスラム共和国」の成立だった。
「イラン革命」は政治革命であるとともに「文化革命」だった。「イスラム共和国」の成立は、文化、文明をふくめて「ヨーロッパ」と手を切り、それを放逐して、新しい独自の文化、文明を構築することを意味した。その意味で、「イラン革命」は中国の「文革」に似ていた。ちがいは二つあった。まず、「文革」は社会と人びとの暮らしに貧困をもたらし、自壊させたが、すでに基本的豊かさを形成していた「イラン革命」は、経済封鎖を乗り越え、「イ・イ戦争」もやり抜き、これまでよく耐えてきた。
もうひとつのちがい―「文革」は毛沢東が一方的にやり出し、人びとを強引に引きずり込んで行われた「革命」だったが、「イラン革命」には人びとの支持、参加があった。「革命」の闘争は六万人の「殉職者」を出したが、それはそれだけ人びとの支持、参加が大きかったことだ。七九年の「イスラム共和国」の成立にあたっては、「是非」を問う国民投票が行われ、九八・二%が「是」と答えた。
この人びとの支持、参加が強力にあった「政治=文化革命」の最大の成果は、イラン人のイランに対する自信をつくり出したことだろう。イランは、「革命」前にはかつて何ごとにおいても「ヨーロッパ」を中心にして動いて来た社会だ。自信は、自らの価値に対するかつてなかった自信だが(今、評価の高いイラン映画はこの自信の産物だ)、しかし、革命後二十二年、事態はどう進むか。
「ヨーロッパ」の基本にある価値は自由。自由が基本にあってその進歩はかたちづくられたが、ホメイニ師以来、聖職者支配がつづく(今「自由」の象徴としてあるハタミ大統領も聖職者だ)「イスラム共和国」は、かわらず自由を「ヨーロッパ」の価値として排して未来を構築していこうとするのか、それとも自らの独自の自由をつくり出そうとしているのか。「イラン革命」自体が圧制に対する自由のたたかいだった。聖職者の学者が言った。「革命前はイスラムは神と人間の関係を律するものだったが、今は神と社会の関係に直面している」。今、女性の流行は鼻の整形手術だ。鼻に大きなバンソウ膏を張った女性を私は何人か見かけたが、黒衣をまとってそこしか見せられない女性にとって、美しさを見せる自由は鼻にしかない―のか。 |
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