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2000年12月24日号
イラン非暴力革命の自信と疲れ 21年ぶりの訪問の印象二論
イランは西方―ヨーロッパ、アラブ世界からアジアヘの関門だ。一九六〇年、私は西方からその関門を通ってインド−アジアヘ入った。
当時のイランは面積は大きいが、世界の辺境のおくれた、貧しい「小国」―独裁「小国」だった。一九五一年にはモザデグ首相の「石油国有化」で世界をおどろかせたが、五三年にはアメリカ合州国が動き、「CIA」の策動でモザデグは失脚、追放、一時国外へ逃れていた皇帝が戻ってきて、皇帝親政の独裁「小国」になった。皇帝は王妃と共にヨーロッパの社交界で活躍、自家用のジェット機で気晴らしに空を飛び、地上の市場(バザール)では七、八歳の子供が重い荷車を曳いていた。私は皇帝には会わなかったが、荷車を曳く子供にはどこででも会った。警官と知己になって中世の土牢めいた留置所も見た。
それから私は何度もイランを訪れた。七〇年代半ば、イランは世界に冠たる「石油大国」にさまがわりしていた。首都テヘランには美麗な高層建築が立ち、かつては姿を見せなかった日本の「ビジネスマン」たちに私は街でいくらでも会った。皇帝は「オイル・マネー」を「白色革命」と称した彼流の近代化と軍事力の強化に無尽蔵に注ぎ込み、アメリカとの結託、癒着を深め、そのもろもろにおいて彼自身が大儲けする。結果として、貧富の差は拡大、民衆は困窮、独裁打倒の「革命」をめざす反体制運動はさまざまに起こり、ひろがり、同時に弾圧も強化された。私はイラン内外で運動の活動家に会い、運動の拡大と弾圧のすさまじさ双方の実態を知った。
七八年五月、事態がまさに「革命前夜」になったことを、私はテヘランに着いてすぐ、イランの知己から聞き知った。そのあと、日本の「ビジネスマン」たちの集会で、「革命」の可能性を尋ねた。「イランに革命など起こるはずはない。イラン人は皇帝の政治に満足している」とイラン調査の「専門家」をふくめて、彼らは異口同音に答えた。九月には皇帝に会うために当時の福田首相もイランにやって来た。その四月足らずのあと、翌七九年一月に政権は打倒され、皇帝は国外に脱出。七九年四月にイランを訪れた私に知己のひとりが言った。「皇帝は金の重みでつぶれた」
もうひとつ、大事なことをここで言っておこう。それは、この「革命」が民衆の蜂起による「非暴力革命」であったことだ。その意味で、これはのちの東ヨーロッパの社会主義政権打倒の「市民革命」にも、最近のユーゴスラビアにおけるミロシェビッチ政権打倒の市民の動きにもつながる。
一九七九年四月一日、国民投票における圧倒的な支持によって、ホメイニ師をその中心とした「イラン・イスラム共和国」は生まれた。その直後に私はイランを訪れた。
それから二十一年―現在のイランを考えるカナメは、いぜんとしてこの国が「革命」をやった国であるという事実だ。これが私の二十一年ぶりにイランを訪れた印象の第一だが、「革命をやった国であるという事実」はそのまま国としての自信につながる。その自信は、今、日本でも評判の、ハタミ大統領の「国連」総会における「文明間の対話」の必要を説く演説の背後に読みとれるだけではない、チマタの人びとの言動にも、私は感じとることができた。
しかし、二十一年間は長い年月だ。現在のイランの人口は七千万人弱。そのうち四千万人近くが「革命」後生まれの「革命」を知らない若い世代だ。そして、彼らをふくめて七千万人弱が、女性は黒い衣で全身を覆い、アルコール類は一切禁止、女性歌手も禁止、歌えない―という「革命」の人生を二十一年間送ってきた。はたして、これでこれからもつのか。私のもうひとつのイランの印象は、彼らは「革命」に疲れ倦んでいる―だ。 |
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