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2001年3月18日号
「西洋」にどう向き合うか 日本の非 認めて謝罪を
聖なる「ヒマラヤ」の国ネパールについてあまり知られていないのは、人口二千二百六十万人の貧しい「小国」(「世界で二番目に貧しい国」とネパール人が言う)が、一九九〇年に国王の「独裁」に抗して民衆が非暴力で立ち上がり、武力弾圧の下、三百人余の犠牲者を出しながら民主主義を獲得した新しい民主主義国であることだ。そのあと、共産党が選挙で力を得て政権につくという世界で稀なこともやってのけた。
しかし、この民主主義国の十年、共産党が政権につこうがどうしようが、貧困、腐敗、抑圧、差別は変わらずつづき、「われわれ民衆は民主主義政治を実感できない。われわれの権利はこの政治のどこにある」と新聞への投稿者が書いていた。「(カースト制度の最高位)ブラーマンの政治」、そして、「インドの音楽をつけたイギリスのダンス」―これがネパールの民主主義だと、別の人が書いていた。
二つともネパールの民主主義のある本質を突いたことばだが、私がここでつけ加えておきたいのは、いっときネパールが西洋人「ヒッピー」の「聖地」であったことだ。日本の若者に今人気があるポカラは、七〇年代はじめに大挙してやってきていた「ヒッピー」たちが文字通り開いた観光地だった。そのころネパールに旅した私にはその実感があるが、彼らが持ち込んだ「西洋」は重厚壮大、堅牢無比の大交響楽の「西洋」ではなく、もっとくだけて自由なギター、そして「ロック」の「西洋」だった。もちろん、その自由は同性愛までもふくめての性の自由、麻薬の自由などが大量に入った、そこに本質を置く自由だ。
かつて、インドをはじめとしてアジアを侵略、支配したのは大交響楽の「西洋」だった。そこから始まってギター、「ロック」の「西洋」に至る「西洋」の総体に、それに侵略、支配されるにせよ、それとたたかうにせよ、それに学び、影響されるにせよ、アジアは対し、つきあって来た。そして、その長いつきあいのなかで、アジアは自分の主体を保持しようとして、あるいは、新しい主体をつくり出そうとして懸命に努力してきた―というのが、私の「アジア紀行」の底にある認識だが、この認識は今日、「グローバリゼーション」の大嵐のなかでいっそう重要になって来ている。
つまり、アジアはこれからいかに「西洋」とつきあうか、という問題だ。もちろん、これは逆にも言える。「西洋」はいかにアジアとつきあうか。ここで子細を論じる余裕はない。ただひとつ言っておきたいのは、問題をただ経済の問題としてはならないこと、また、気のきいた、そして安易な「東西」文明の衝突、あるいは融和談義に閉じ込めないことだ。
もうひとつ、大事なことがある。日本は「西洋」に抗するかたちをとりながら逆にアジアを「西洋」同様、侵略、支配しようとした。実際、多くの地域でしてきた。私が「西洋」について書いことはたいていそのまま日本にあてはまる。侵略、支配は、そこにどのような名分があろうが、つけられようが、してはならないことだ。アジアが日本に対して不信をもってふしぎはない。
かんじんなことは日本がます自らの非を認めて「正式」に謝罪し、できるかぎり償いをすることだ。私があらためて今こう述べるのは、それが人間としてするのが当然のことでもあれば、その当然のことがなされないかぎり、過去がかたちをかえ品をかえ立ち現れて、対等、平等、自由なつきあいの妨げとなるからだ。こうしたことは、私はのちの世代に残したくない。四十年以上に及ぶアジアとのつきあいから、私が今ぜひとも述べておきたいのはこのことだ。
何、イギリスが、フランスが、自分たちの過去について謝罪したかって?していない。しかし、それはまったく無礼でおろかなことだ。私はそれが誰の何であれ無礼とおろかさに与したくない。まして「西洋」の無礼とおろかさに同調したくない。私は私のアジアの一員、恥を知る日本の市民としての誇りをそこに置く。 |
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