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2000年8月13日号
自由で謙虚なベトナムの自信 発展の土台、平和を手に
ベトナムはこれからどうなるか。私がひとつ考えるのは、かつてのサイゴン、今のホーチミンに昔からあったホテルの名前のことだ。たとえば、私が今度のベトナム―インドシナの旅で泊まった「ホテル・マジェスティク」。このフランス名前のホテルは、かつての植民地の支配者のフランス人が建て、君臨していたホテルだ。そのあとベトナム戦争が「フランス戦争」から「アメリカ戦争」に引き継がれた時代には、「西」側の記者たちの定宿になっていた。一九八ニ年、「アメリカ戦争」がベトナムの勝利に終わって七年後、はじめて「南」ベトナムを訪れた私が泊まったのもこのホテルだが、そのときには名前が「クーロン(九竜)ホテル」とベトナム名前に変わっていた。しかし、今はもとに戻って「ホテル・マジェスティク」。このホテルだけではなかった。いっときベトナム名前に変えていた昔からのホテルは、またもとのフランス名前、西洋名前に戻った。
しかし、根本的な違いがある。かつてのフランス名前、西洋名前のホテルはすべてフランス人その他の西洋人経営のホテルだったが、今は同じ名前ながらベトナム人のホテルだ。ちがいは自然にできたものではない。何十年にも及ぶベトナム人の血みどろな解放闘争の勝利あっての違いだ。勝利後、彼らはベトナム名前にホテルの名を変えたが、たたかいに勝った今は、かつての支配者と対等、平等、自由につきあえる。ならば昔通りの、西洋に通りのよい名前に戻してもよいだろ。彼らは戻した。
私は、これがベトナムだと思う。このしたたかさと自由があって、彼らは「フランス戦争」に勝ち、「アメリ力戦争」に勝った。今のベトナムには、この勝利から得た自信がある。その自信は「革命国」「解放闘争国」によくある天上天下唯我独尊の排他的、閉鎖的自信ではない。もっと普遍的に外へ開かれた、それゆえに自由で謙虚な自信だ。
ホーチミンが書き、ベトナムの国家としての基本をかたちづくった四五年の独立宣言は、他に類のないことだが、アメリカ合州国の独立宣言とフランス革命の市民の権利宣言の引用から始まっている。「人は、自由かつ権利において平等なものとして出生し、かつ生存する」(岩波文庫「人権宣言集」)―このフランス革命の人類普遍の原理をベトナムにおいて踏みにじったのは当のフランスだとして、ベトナム独立宣言はフランスの支配を拒否し、支配に対するたたかいを宣言した。
同じことはアメリカ独立宣言の引用にも言えた。そこに人類普遍の原理として措定された平等、自由をベトナムにおいてないがしろにしたのが当のアメリカだった。だからこそ、「われら」はたたかう―この普遍の筋金が一本入って、彼らのたたかいは国際的な支持を得て、反戦運動の世界的なひろがりになった。
ベトナムの未来についてバラ色の幻想を描くつもりはない。あまた経済の困難はある。いろんな人が政府高官をふくめて率直にその困難について述べた。ただ、ベトナムはもともとが自然に恵まれた土地だ。米もゆたかにできれば、石油も最近は輸出するまで産出するようになった。その自然のゆたかさに自由で謙虚な自信、さらには最近人びとのなかに生まれて来た勤労意欲が結びつけば、この人口八千万人弱の、そして、圧倒的に若者人口が多い国はこれからアジアで出色の国として伸びて行くだろう―これがベトナム−インドシナの旅を終えて私の今、考えることだ。発展の土台としての平和は、すでに彼らは確実に手にしている。
ハノイの中心に、かつて亀が剱を背にして現れ、その剱で明軍の侵略を撃退したあと、剱をまた亀に還したといういわれの還剱湖がある。私はその池のそばでベトナム人の友人に「もうベトナム戦争の剱は還したかね」と訊ねた。「還したよ。中越戦争の剱も還したし、カンボジアでの剱も還した」。友人は私の質問の先を行くように答を口に出した。 |
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