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2000年11月26日号
「亜世界」としてのインド 大波受ける「社会主義国」
今、インドの街路には国産車、外国車がひしめきあって走るが、私がはじめてインドを訪れた一九六〇年、四十年昔にインドは乗用車をつくっていた。当時のアジアで車を生産していたのは日本とインド。「ライセンス生産」であろうと何であろうと、当時、車をつくる国は「経済先進国」だ。日本とインドの「先進国」としての類似はもうひとつある。それは民主主義政治をそれなりにやってきたという類似だ。戦前、日本には根本的に民主主義はなく、インドはまだ独立していなかったのだからすべては戦後のことだが、とにかく民主主義できたという事実はアジアにおいて「政治先進国」の名に値する。もちろん、これは両国ともに腐敗、堕落をあまたともなってきてのことだ。
民主主義の根本は自由。言論、結社、政党の自由はその政治の要諦としてある。日本もインドも、共産党を「合法」政党とする「民主主義国」だが(共産党の存在を認めなかったかつての「西」ドイツは、この意味で、「民主主義国」ではない)、この民主主義政治の要諦にあっては、インドのほうが日本より先進的―「左」であってきた。
今、インドには共産党が主導する州政府の政権が三つある。最大のがカルカッタを州都とする西ベンガル州政府だが、州の人口は七千四百五十万―これではもう巨大な「社会主義国」だ。独立運動発祥の地カルカッタは労働運動の歴史も長くて昔から「左」の力が強かった都市で、レーニンの銅像が市の中心の公園のカナメの場所に昔から、そして、今も立っている。そこから始まる通行人、露店商人、物ごい、リキシャがひしめく小商店がはてしなくつづく大通りは「レーニン通り」。
この「社会主義国」はできてすでに二十三年になる。まさに長期政権だが、そのあいだに何が変わったか。私は四十年昔、野宿者がいくらでもいるカルカッタの街路で二夜を明かしたのだが、今の街路のさまもそのときと大差はない。「社会主義国」の変革の目玉は「農地解放」のはずだったが、「西ベンガル州社会主義国」もニ番目に大きい人口三千三百万の「ケララ州社会主義国」も、土地のない農民の比率は「社会主義国」になって十数年経っても四割で、全国平均より高かった。そして、長期政権は官僚化し、固定化し、腐敗、堕落する。
そこに来たのが「自由化」「グローバリゼーション」だ。その大波にもまれて、「社会主義国」政府は「公営企業」を手放し、工場をつぶし、労働者のクビを切り、それに抗う労働者の自主、自立の運動を抑え込み、自分の地位と利益の確保、さらにはそこでの大儲けさえ企んで延命をはかる。カルカッタの私の友人は元「党員」の高名な経済学者転じての市民運動の活動家だが、彼に元の仲間の政府閣僚が言ったものだ。「何を言ってもいいが、社会変革だけは言ってくれるな」
こう書いていて少しも新しいことを書いている気にならないのは、こうしたことすべては、世界大の規模でかつての「社会主義国」に起こったこと、今も起こりつつあることであるからだ。
しかし、それでは、インドの非「社会主義国」の他州で、そして、インド全体で貧困は解決しているのか。答えはあきらかに「否」だ。四十年昔のインドの人口は四億四千万人、今は十億、その六割は文字が読めず、三割近くが食うや食わずの極貧層―この四十年間に、乗用車を生産するほどの「経済先進国」としてのインドはこの事態を救わなかった。「社会主義国」をふくんでの民主主義の「政治先進国」としてのインドも救わなかった。
では、「IT先進国」としてのインドが救うのか。都市であれ農村であれ、インドの現実に接しての答えは「否」でしかない。しかし、これはインドだけの問題ではないだろう。インド人は自分の巨大な国を「亜大陸(サブコンティネント)」と呼ぶが、私は今インドを歩いて、あらためて「亜世界(サブワールド)」に対している気になった。世界の問題の縮図がそこにはある。 |
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