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2000年3月28日号
「阪神・淡路大震災」―被害者はニ度地震にやられる
先日、私は神戸市西方の須磨寺に出かけた。昔はよくこの「平家物語」ゆかりのお寺に出かけていたものだが、5年前の「阪神・淡路大震災」以後は初めてだ(私自身をふくめて、震災の被災地の住民は、今すべてにわたって、「震災以前」「以後」でものを考えているようだ)。久し振りに出かけて、驚いたことがあった。寺の門前町の商店街のそばに今もなお震災の被災のあと歴然としたさら地の一画が残っている―と思ったら、そうではなかった。「復興都市計画」の名の下に、17b幅の巨大な高速道路をその地域に貫通させようとして、被災のあと住民が苦労してやっと再建した住宅をもう一度ぶっこわすかたちで、市が住民の反対を押しきって新しいさら地づくりをやっているのだ。その新さら地のまわりに張りめぐらされた金網には反対のビラがあちこち張られていた。ビラの文言をまとめあげると、「今、なぜ、住民無視の、地域の暮らしと経済、そして、環境を破壊する50年前に計画された『大型産業道路』を建設する必要があるのだ」。たしかに、今、この『大型産業道路』が完成すれば、今どき珍しい公設市場をふくめて、多数の商店が消滅し、門前町は分断され、商店街は衰退し、須磨寺周辺の環境はまちがいなく悪化する。
ブルドーザーが派手に再建住宅をぶっこわすのを見ながら、私はあちこちの被災地で、道路建設、拡大、都市整備の「復興都市計画」の名の下の「区画整理」で自分の土地に住めなくなった被災者から異口同音に聞いた、「わたしたちは二度地震にやられたようなものだ」という言葉をあらためて思い出していた。一度目は自然の地震だが、二度目は役人やら政治家やら、彼らと結託する土建屋やら学者やらが引き起こした行政―政治の地震だ。
この神戸市を中心として「阪神・淡路大震災」の被災地でこの「震災5年」のあいだ文字通り強行されて来た「復興都市計画」には大きく言って次の二つの特徴がある。一つは、被災者、市民無視、「官」の一方的主導の「復興」。二番目は、時代遅れの街の近代化、巨大化、高層化。
一番目の特徴については、震災2ヶ月余後の以下の新聞記事が端的に示している。「後で知って驚いたことがある。火災がなお続き、多くの人ががれきの下に埋もれていた地震の翌日、都市計画局の職員約200人が自転車やバイクで市内に散った。救出のためではない。都市計画の基礎資料とするため、建物の破壊、焼失度合いを調査したのだ。局幹部でさえ、『こんなことをしていいのか』と葛藤があったという」、「計画は『初めに道路ありき』としか言いようがない。」(「毎日新聞」1995・3・20)
「都市計画の基礎資料とするため」と記事にはあったが、計画はすでに長年「都市再開発計画」として出来上がっていた。地震は多くの土地をただのさら地にしたのだから計画実施にこれほどいいときはない。これこそ「千載一遇の好機」として(実際、何人かのお役人がそう言った)、被災者が避難して被災地にいないなかで2月には、かねてからの計画が「復興」の二文字を冠して発表され、当然被災者の参加がほとんどないままで文字通り形式的に市は3月14日、県は3月16日と「都市計画審議会」はただ一日で「審議」、承認、3月17日には知事がこの「復興都市計画」を承認、決定―そこから今日の須磨寺近くの50年前に計画された「大型産業道路」の建設に至るあまた住民の暮らし、地域の経済、周辺の環境破壊をともなった行政―政治の地震は始まった。
この「復興都市計画」の二番目の特徴は、時代おくれの街の近代化、巨大化、高層化で、高層、超高層の集合住宅や巨大道路の建築、建設がその具体例だが、それがいかに時代おくれであるかは、ヨーロッパその他の世界の「先進地域」で、非人間的な居住空間である高層、超高層の集合住宅をこわしてまで低層のものに代え、高速道路建設をやめ、歩いて安全に用が足せる、自転車で動ける、路面電車を復活して車支配から脱却しようとする新しい都市づくりの動きが急速にひろがりつつある事実がよく示している。
そして、この時代おくれの「復興都市計画」は被災地各都市を「復興」させて来たのか。「復興都市計画」の巨大「公共事業」に直接つながる大企業の答は「イエス」だが、小さな企業、そして、かんじんの市民の暮らしにかかわっては答は明らかに「否」だ。神戸市の場合で言えば、失業率は99年度で10%を超えると推測されて、全国平均の二倍を超える。従業員300人以上の大企業は売り上げを伸ばしたが、4人以下の小企業の売り上げは年ごとに減少。長田区など被災6区の人口はいぜんとして激減のまま。商店街、小売市場の再開は6割弱。市民の所得は政令11都市中最低。論より証拠。かつては小さな商店が建ち並んで賑わっていた長田には、値段が高くて被災者は買えない、したがって半分も入居していない超高層の集合住宅はそびえ立っても、商店街は客が来なくて、かつての賑わいはない。
私はその長田で、「有志」の被災者、市民とともに3月18日、「『震災5年』復興計画を提言する」シンポジウムを開いた。それは、被災者、市民の側から「復興計画」をつくり出さないかぎり、被災地の「復興」はできないと考えたからだ。今、私たちはそのシンポジウムを皮切りにしてその「市民の計画」を出そうとしている。その基本は時代おくれのものでない、ほんとうに近代的な市民が安心して暮らせる都市をつくることだ。 |
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