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2004年12月28日号
先住民族の文化について、また「正義」について―私の新年の辞―
私は最近東京で開かれた「日台フォーラム 先住民文化と現代」(植民地文化研究会主催)に出て、台湾原住民作家二人の話を聞いた。
日本統治下での彼らの苦難の歴史をここで述べるつもりはない。「霧社事件」、「高砂族義勇隊」の二つがそれを物語っている。戦後も中国本土から来た蒋介石政権の独裁、強権政治の下、二重、三重の差別、抑圧を受けたあと、今ようやく彼らは「原住民族」として法的に認知され、人並みの取り扱いを受けるようになった。
「フォーラム」に来た原住民族作家のひとりは、中国から来た―蒋介石軍に少年兵士として強制的に加わらされてやって来た「外省人」の父と、彼に金で買われて結婚したパイワン族の母をもつリカラッ・アウーで、彼女の作品の主題は、まとめ上げて言えば、彼女の家族関係が示すよう錯綜した現代台湾の問題がいかに原住民族の世界に入り込んで、彼らの文化を崩壊させつつあるか―だ。
もうひとりは台湾南方海上の蘭嶼島のタオ族の作家シャマン・ラボカン――彼の小説「黒い胸びれ」は、島の「特産」でもあり彼らの文化と歴史の象徴とも言えるトビウオを主題にした「海洋小説」で、彼に言わせれば、こうした「海洋小説」は、今、中国にも世界にもない。彼らの文化の崩壊をくいとめるのは彼らの故郷の自然の力だ――そう読んでいて感じさせる力強い小説だった。
魚住悦子がアウーとラボカンを二人あわせて訳して「故郷に生きる」と題した一書に収めている(革風館・2003)。これは都市がいやになって故郷へ帰って農業をやるというたぐいのことではない。また、私はさっき今彼らは原住民族として法的に認知されたと書いたが、政府がもの判りがよくてそうしてくれたものではない。すべて彼ら自身が運動を起こしてたたかったからだ。運動の目標をいくぶんでも達成したあと、運動を形成した都市在住の知識人たちは、自分たちが故郷をいかに離れて生きてきたかを痛感した。自分たち原住民族の根っ子にある、故郷へ帰って生きよう――それが「故郷に生きる」だ。
私がここで想起するのは日本のアイヌ――アイヌ民族だ。それまでの「北海道旧土人保護法」に代って「アイヌ新法」がようやく制定されたのは1998年のことだが、これは何も政府がもの判りよくてやってくれたことではない。長年にわたるアイヌ自身のたたかいがあって、それがやっと結実しできたことだが、この長年の闘争の根にあったのも彼らの故郷であり故郷の自然であり、両者がかたちづくる文化だった。
「フォーラム」にはアイヌの代表者も来ていたが、「フォーラム」でアイヌとともに私が想起していたのはハワイの先住民族カナカ・マオリ族のことだ。
私がここで彼らのことを述べておきたいのは、1994年8月に彼らが主催して開いた長年のアメリカ合州国の植民地支配を彼ら自身の手で裁こうとする「国際民衆法廷」に参加したことがあるからだ。およそ1週間にわたって、オワフ、カウアイ、マウイ、モロカイ、ハワイ五島をめぐっての「法廷」だったが、彼らの運動の根にある故郷と自然、両者に裏打ちされた文化の重要性について私は体得し、感得した。
ここで私は彼らの運動、闘争そのものについて書くつもりはない。ここで述べておきたいのは、彼らの故郷と自然に裏打ちされてかたちづくられた文化のあるものに私達がもたないものを見出して、私が深い感銘を受けたことだ。いくつもあったが、そのひとつ、「正義」について書いておきたい。
「正義」と言うと、「正義の女神」のようなのがいて、彼女がふりかざす「正義の鏡」に事物をうつし出して、これは「正義」、あれは「不正義」と決めつけ、さあ、この「正義」をかかげて、あの「不正義」を討て――になる。まさに「天に代りて不義を討つ」だ。
カナカ・マオリ族には元来、「正義」ということばはなかった。それはこうした意味においての「正義」はなかったことだ。「正義」にあたることばとして辞書にでているのは「カウリケ」で、このことばのもともとの意味はバランスをとるということのようだ。彼らの社会は土地の個人所有制のない共同体社会だったから、そこでは分配の平等、公正が最も重要なことになる。この「正義」には「正義の女神」のもつ「正義の鏡」による一方的な裁断はない。まして、「天に代わりて不義を討つ」はない。
私は、カナカ・マオリ族を先住民族とするハワイの植民地支配の遂行者のアメリカ合州国は(多くのアメリカ人はハワイの植民地支配などしていないと怒るだろう。しかし、カナカ・マオリ族の末裔、自らをそう任ずる人たちはアメリカはまちがいなくしていると言うだろう)、ブッシュ氏以下(彼を大統領に選んだのは、どう弁解しようとアメリカ合州国市民自身だ)「正義の女神」の「正義の鏡」をふりかざして「天に代りて不義を討つ」をこれからもさらに大きく派手にやらかすにちがいないと考えるのだが、私はこうした「正義の女神」の「正義」より平等、公正な分配、そこでバランスをとるというハワイの先住民族の「正義」のほうがはるかに上等な「正義」だと思う。これが私の2005年を迎えるにあたっての新年の辞だが、読者諸君、どう思われるか。
何はともあれ平和な一年を。 |
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