作家
 小田 実のホームページ 毎日新聞連載 西雷東騒

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『国家至上主義』のまたぞろの台頭――「国破れて、山河あり」、なにより「民」あり
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敗戦体験の意味―米国で進む歴史の「悪」の再評価
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アテナイとアメリカ合州国・その酷似
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「民主主義国」「人間の国」の土台としての「市民・議員立法」
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「経済大国」から「平和大国」へ―転換の「世界構想」
■  1999年8月31日号
「平和主義」か「戦争主義」か―「良心的軍事拒否国家」日本の選択
■  1999年7月27日号
私にとっての8月14日

2004年1月27日号
『国家至上主義』のまたぞろの台頭――「国破れて、山河あり」、なにより「民」あり

 またぞろ「国家主義」――「国家至上主義」が台頭し始めているようだ。

 すべて「国」あっての「」。決して「民」あっての「国」ではない。「民」は「国」なくしては生きられない。「国」に「民」は生命をもあずけ、「国」とともに生き、「国」とともに死ぬ。考えるべきは、まず、「国益」。決して「民益」ではない。「民益」を損ねても、「国益」を求める。優先されるべきは「国権」。「民権」ではない。「民権」は「国権」あっての「民権」、「国権」のワク組みのなかにある。それを超えてはならない。

 まとめ上げて言って、これが「国家至上主義」だ。

 いくさが起こって、「有事」の事態が来る。いや、政治家、役人など、国家要路の、そう自認する人間たちが事態をそう認定するときが来る。この「有事」にさいしては、「民権」を自らに固有の権利としておろかに主張する「民」が主権のよりどころとする「憲法」に用はない。よろしく戒厳令を行使して、「憲法」を停止せよ。停止すべし。世は今や有事、非常時だ。

 この「非常時」はいっときのものではない。国家が世界に乗り出して新しい未来をつくる回天の大事業をなすにあたっては、「民権」にこだわる「憲法」にはいっそう用はない。「憲法」は変更も廃止もしないが実質それを乗り越える「非常大権法」をつくり、施行せよ。施行すべし。

 この「国家至上主義」を「非常大権法」の施行に至るまでやってのけたのがナチ・ドイツだった。そこまではやらなかったが、実質同じ「国家至上主義」を「民」に強いたのは、「大日本帝国」だ。「大日本国憲法」は、ナチ・ドイツが「非常大権法」で効力を停止させた「ワイマール憲法」と本質的にちがって、もともとが「国益」「国権」優先、「民益」「民権」無視、軽視の「国家至上主義」の「憲法」だったっから、「非常大権法」は必要なかった。時代が「昭和」に入り、軍人が国家要路の人間として政治の主導権を握ったときには、「国益」「国権」に「軍益」「軍権」が強大に加わって、「民益」「民権」はいっそう圧迫、踏みにじられて、戦争に「民」はひきずられて入り、「軍国日本」がアジア・太平洋地域で展開した「殺し、焼き、奪う」事態のなか「派兵」されて加害者となり、やがて形勢逆転、そこで展開された「殺され、焼かれ、奪われる」事態のなかで徹底して被害者、「棄民」となって、「大日本帝国」は終わった。それが基本とした「国家至上主義」も終わった。

 しかし、今、「国家至上主義」がまたぞろ強力に姿を現して来ているように見える。

 自衛隊の「イラク派兵」の正当化に首相以下の政治家、役人がさんざん口にしたのは「国益」の一語だ。アメリカ合州国の「イラク戦争」には大義名分はないかもしれない。しかし、アメリカに文句をつけずに協力することは「国益」になる。この「国益」に「民」は「憲法」をよりどころとして反対を主張する。しかし、「派兵」は「国権」行使の行為だ。「国権」は「民権」に優先する。テレビを見ていると、「憲法」は国家あってのもの、場合によっては「憲法」を乗り超えて「国権」の行使があってもよい――と自民党の有力若手政治家が戒厳令行使、あるいは「非常大権法」を示唆する発言を堂々としていた。

 この「国家至上主義」は「派兵」にかかわってだけの問題ではない。本来、住民――「民」の安全確保がいかにあるかが決まってなさるべきだったのが、「民」そっちのけで、ただ、自衛隊、米軍の行動を円滑にするためにつくられ、整備されつつある「有事」体制は「国家至上主義」まるだしのものだが、昨年末にようやく要綱が定まり発表された「国民保護法」も、「国家至上主義」をさらに強力に押し出した法案だ。その骨子は、「民」は国家の言うことにただ従え、その上で「保護」はしてやる。いろいろの条項の問題をここで書くつもりはない。まとめ上げて言って、「国益」は「民権」に優先、「民権」は「国権」の強力行使の下、ほとんどない――それが「国民保護法」だ。

 第二次大戦において、パリを救い、ボローニアを戦争の惨禍から救ったのは、「非武装地域」「無防備都市」宣言だったが、今、取りされている「有事」体制、「国家保護法」には、住民が自らを護り、自分の住む都市を戦火から救おうとして自らが宣言する、その宣言をもとにして、白旗を掲げて、「敵」とも交渉する――この「民権」に基づいた発想は「国民保護法」にはない。それどころか、それはそうした「利敵行為」は許されるべくもないことだとする。この「国民保護法」では「民」はただ、「国」に従い、自衛隊、米軍の言うままに動く、それが「民」の義務だ――の「国家至上主義」が強制力をともなって、私たち「民」の上にのしかかる。

 「大日本帝国」が敗れて消滅したとき、私たち日本人が、当時13歳だった私自身をふくめ、実感したのは、「国破れて山河あり」だった。その「山河」に、消滅した「国」を超えて私たち「民」は生き残り、その「国」なき「山河」で新しく生きなおすことから、私たちは戦後の日本を始めた。そのとき、私たちは「国家至上主義」からもっとも遠いところにいた。今はどうか。

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