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2000年8月29日号
八月、「年中行事」が終わっての感想
毎年八月になると、新聞、雑誌、テレビ、ラジオ―日本のジャーナリズムの世界では、突然、連日、戦争が語られ、論じられ、画面にうつし出される。世の中が大きく変わってきているといっても、基調はまだまだ反戦、平和―戦争がいかに悲惨か、平和が大事か。しかし、十五日が過ぎると、たいていあとかたもなく消える。まさに「年中行事」だ。
「年中行事」を非難しているのではない。年に一度のことであれ、日本人が戦争と平和の問題をまともに考えるキッカケ、土台となり得ることが、急速に戦争の直接の記憶が消えつつある今、ジャーナリズムの世界でいぜんとして行われているのは大事なことだ。ただ気になることはいくつかある。
ひとつは、戦争についての認識の問題だ。認識をまちがいなくもっていないと、「年中行事」はおかしくなる。一九四五年に終わる日本の過去の戦争は、誰がどう言おうと、その本質において「侵略戦争」だった。この「侵略戦争」も、末期には、「年中行事」にいつも登場する「学徒出陣」のニュース画面が端的に示す「悲愴」、空襲の「悲惨」、戦後の「引き揚げ」の「悲哀」に満ちたものになった。それらの「悲愴」「悲惨」「悲哀」は「年中行事」にいつもよく示されるものだが(そのころ中学生だった私には、その体験もいくらかあれば、実感もある)、それらはすべて自らが行った「侵略戦争」の最後にわが身に戻ってきた自業自得の結果だ。歴史をそう勇気をもって直視する姿勢を欠いては、「年中行事」はただの「年中行事」に終わる。
私が最近の「年中行事」を以前のものより評価するのは、この歴史を直視する姿勢が少しは強くなってきていると見てとれるからだ。以前には「年中行事」に登場してこなかった侵略の「加害者」が出てきて、自分がいかにひどいことをやったのかを反省を込めて語る―というような昔の「年中行事」にはなかったことが今は行われるようになった。しかし、気になるのは、彼らがたいてい下級兵士、作業員であっても、彼らの上に立って命令を下した高級軍人、役人、政治家のえらいさん方ではないことだ。えらいさん方はいつも裏にいて、うまく立ちまわって戦争を生き延び、そのまま戦後日本でさらに出世もすれば戦後の政治、経済の中心をかたちづくった。そして彼らには、もちろん、何の反省もない。ひとつの端的な実例が中国人その他を「マルタ」とみなして実験材料として細菌兵器を製造した「七三一部隊」の幹部たちだろう。彼らはその実験の結果をアメリカ合州国側に提供することで「戦犯」の訴追を免れ、戦後は輸血用の血液製剤業界を牛耳って大儲けしたあげくに「エイズ」にかかわって途方もない薬害をひき起こすのだが、彼らのことは、部分的には報道されることはあっても、アメリカ合州国との「取引」をふくめて、その戦中、戦後にわたって全体の解明は、「年中行事」はくり返されてきていても、まだまだ十分になされていない。その解明は「年中行事」のこれからの大きな課題だ。「年中行事」でもうひとつ気にかかったのは、そこで語られ、論じられ、うつし出された戦争が、いつもたいていが過去の戦争であったことだ。現在、未来の戦争として、「核」戦争については論じられはした。過去の戦争が「侵略戦争」だったかどうかについても語られはした。しかし、それでは、現在、未来の戦争が「核」戦争でないとしたら、あるいは、「侵略戦争」でなく、ふつうの戦争であるとしたら、どうするのか―について、問題にされることはほとんどなかった。
私がこれは危険なことだと考えるのは、「湾岸戦争」以来、世界に大きくひろがってきているのは、「人道的武力介入」を大義名分として戦争を今一度正当化しようとする動きであるからだ。この動きのなかで、軍事力はかえって強化され、軍事提携は拡大される。「人道的武力介入」のきわめつけは昨年三月に始まったコソボの民族紛争にかかわっての「NATO」(北大西洋条約機構)軍の「空爆」という名の戦争だった。この一方的な戦争がいかに、効果がなかったかについては、前回に私は書いた(まとめ上げて言えば、「空爆」の対象となったユーゴスラビア側において、「空爆」の犠牲となって殺された民間人千五百人、「NATO」軍側の死者ゼロ―のこの一方的殺りく戦争は、「武力介入」の目的だったはずの民族紛争の解決をなし得ていない)。
しかし、この効果のなかった「武力介入」のあとも、「人道的武力介入」の名の下の戦争の正当化の動きはつづいてきている。私は八月十四日に「NHK」衛星放送で放映された「正義の戦争はあるか」の番組の制作にかかわってきて、「武力介入」を主張する人たちに何人も会ったのだが、そのなかのひとりで、もっとも武力介入を強力に主張したアメリカ人女性が「人権」擁護の医師の国際組織の事務局長であったことが私の印象に強くのこっている。これだと、「人権」を大義名分にかかげてのまさに「人権戦争」だ。
戦争にかかわっての世界の事態はまさにここまできている。今一度、戦争について根本的なところから考えなおすときに世界全体はきているように見える。それは、戦争には正義はないとして、戦争と軍隊の全廃を、自国のあり方、いや、あるべきあり方を通じて世界に訴えた日本の「平和憲法」の価値が真に問われるときにきていることでもある。しかし、今年二〇〇〇年の「年中行事」には、あえて言えば私が制作にかかわった番組を除いて、そのかんじんの主張はなかった。 |
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