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2001年5月29日号
通底する二つの上訴
小泉純一郎氏の内閣は、小泉氏を筆頭にして、多少の改革の意志とムホン気と人情のある世襲の若殿様たちの政権のように見える。そして、多少は清潔。これまでの代々の殿様が方があまりに守旧、頑迷固陋(がんめいころう)、腐敗、人を人と思わぬ政治をやって来たものだから、彼らの「多少」には魅力があるにちがいない。チマタの民草(たみくさ)はありがたがって彼らの言動を見ている。いや、とりすがろうとしている。
どの国のどの歴史にも、こうした若殿様は出現して来るものだが、彼らの一つの特徴は気まぐれであることだ。一方でいい政治の快挙をやり、いや、やろうとする姿勢を誇示し、他方であいもかわらぬ悪政、愚政、暴政で人間を切り捨てる。こっちの池のコイには餌(えさ)をやって人気を博し、あっちのコイには餌もやらない。いや餌を取り上げさえする。ハンセン病にかかわって国と国会の政治の責任を問うた熊本地裁の画期的判決に対して、小泉氏の政府が控訴しなかったことはたしかに快挙だが、同じように国と地方自治体の政治の責任を問うた大阪高裁の水俣病関西訴訟の画期的判決に対しては、国と県は上告を堂々とやってのけた。
この上告の決定がなされたのは、ハンセン病にかかわっての画期的判決がなされた同じ五月十一日のことだ。同じ日の新聞に、ハンセン病訴訟の原告の「生きてたかいあった」「人間として認める」の大見出しの「歓喜の拍手」の記事があれば、他方に水俣病訴訟原告の「国民は虫けらか」「国の上告に涙」の記事が出ている(毎日新聞01・5・11)。この対比、乖離(かいり)はむごい。どちらの場合も、若殿様たちは同じことばを口にした。「原告は高齢者。悲惨を見るのはしのびない」。そのあとがちがった。一方が「だから、控訴しない」。他方は「しかし上告する」。
もちろん、問題はただの「気まぐれ」の問題ではない。熊本「地裁」の判決はこれからの裁判を律する「判例」にはならないが、大阪「高裁」のは「判例」になる。それを政府側は見こして、わざわざ「政府声明」まで出して、ハンセン病の判決は例外的だ、前例にならないと強調する。この声明と「反省とおわび」(毎日新聞01・5・25の見出し)の首相談話とのあいだには、ここでも無限の乖離がある。
この若殿様の政府、たしかに若殿様のサル知恵も身につけている。「声明」に端的に出ているのは、これまでの体制を変わらず強力に維持して行こうとする強固な意志だ。その強固な意志を前提としての改革、ムホン気、人情、清潔―私が冒頭で「多少」をつけて書いたのはその意味においてのことだが、真にその名に値する改革はこの「多少」が言葉につくかぎりできない。
私の住む兵庫県でも、神戸地裁が「阪神・淡路大震災」の被災者に対する「公的援助」金支給にかかわって、小さいものながら画期的判決を下したのに対して、県知事が控訴するという事態が、四月から五月にかけて起こって来ている。規模は小さいが、「生きてたかいあった」判決に対して「知事の控訴に涙」の事態だ。
私たち被災者が自ら二年半にわたって動いたことが土台になってようやくでき上がったのが、大災害においての被災に対して「公的援助」金の支給を認めた「被災者生活再建支援法」だが、この「支援法」はかんじんの「阪神・淡路大震災」での被災者に対しては適用されず、国会での「付帯決議」によって「支援法」の規定に準じる「自立支援金」を、県と神戸市が出資した(実質はもちろん税金だ)財団法人「復興基金」(理事長は知事、副理事長は神戸市長)が被災者に支給して来た。「自立支援金」がいかに少額が、きびしい制限つきのものか、なぜ支給が「財団法人」を通じてなされるのか、そこでの問題、マヤカシについてここで論じるつもりはない。
神戸地裁での判決自体に問題をしぼりたいが、この判決は、被災者でありながら非被災者と結婚して世帯主でなくなることで「自立支援金」の受給資格を失った、そう認定されて支給を拒否された女性が支給を求めて「復興基金」を訴えた裁判で、神戸地裁が下した女性勝訴の判決だった。勝訴の理由は受給資格の認定は被災後三年半経って行われたもので、これは無茶、「信義則上、許されない」、女性の非被災者との結婚による受給資格の喪失の決定は明白に女性差別、「公序良俗に反し無効」。そう神戸地裁は認定して、百万円の「自立支援金」の支給を「復興基金」に命じた。
しかし、二通闇後、「復興基金」の理事長の知事はこの画期的でもあればきわめて妥当でもある判決を不当だとして控訴した。若殿様たちの政府と熊本県による水俣病判決に対しての上告と、この兵庫県知事による控訴はあきらかに通底している。 |
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