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2002年5月28日号
アメリカ合州国という名の「関東軍」
「有事法制」はこれから来たるべき「有事」に備えてつくられようとしているものではない。すでに存在し始めている「有事」に即応するものとしてかたちづくられつつある。
この平和な時代に、今、なぜ、「有事法制」か――という問題のたて方はまちがっている。すでに世界は「平和な時代」ではない。世界はすでに「有事」に直面している。ただ、この「有事」はアメリカ合衆国がつくり出し、今大きく世界にひろげようとしている「有事」だ。この「有事」は、かつてわが「関東軍」が日本の主権の及ばない、そのはずの中国東北部――「満州」で彼らの手で次々に「有事」を引き起し、拡大してアジアに戦乱をひろげ、日本全体を戦争に引きずり込んだ歴史を思わせる事態だ。そのとき日本政府はためらい、ときには反対しながらも、結局、時代の流れのままに、「関東軍」の「有事」を追認、追随して、ついには日本を破滅にまで追いやった。
今の事態は、アメリカ合衆国という名の「関東軍」が次々につくり出す「有事」を日本が追認、追随しているという事態だ。米軍の「後方支援」という名目で自衛隊の「海軍」がインド洋にまで出動し始めたとき、私が想起したのは、1931年(「昭和」6年)の、「明治憲法」下でも「違憲」だったはずの朝鮮駐屯軍の「満州」への「独断越境」だった。
その「関東軍」の策動による当時の「海外出兵」は、日本の「満州」支配の拡大、「満州国」の樹立、さらには中国侵略、アジアへの戦乱の拡大につながる事態だったことを冷徹に歴史は告げている。
「有事法制」は、今、「関東軍」さながらの「有事」の追認、追随を法制度として支え、その土台の上でアメリカ合衆国=「関東軍」は「有事」の範囲をひろげ、日本は追認、追随を拡大する。ここでもうひとつ危険なことは、「関東軍」の「有事」が日本国内に入り込んで、その名の下で自由抑圧、人権弾圧の軍国政治を強大に形成したのと同じように、アメリカ合衆国がつくり上げる「有事」が今や日本国内に強引に入って、自由、人権を基本とする民主主義政治を根もとから突き崩そうとしていることだ。
軍隊、軍事はもともとが国家という全体を護ろうとする、いや、往々にしてその名の下に「海外出兵」、侵略さえ行う軍事組織だ。ともすれば市民個人の自由、人権、いや、生命の安全さえをも犠牲にして、全体の目的、利益を優先させようとする。ことに個人の力が伝統的に弱い日本では、この全体――国家優先の「全体――国家主義」は強力に出る。国会における「有事立法」の論戦での政府答弁は、すでにその危険をよく示している。これでは市民ひとりひとりの自由、人権、生命をその基本とする民主主義は国家の名の下にないがしろにされ、個人は抹殺される。
ドイツは個人の力が強いヨーロッパのなかで、元来、全体が強い国だった。ナチ・ドイツはその伝統に根をおいて、彼らの全体主義国家を打ち立てた。「東」ドイツは多分にその伝統を保持して、社会主義国家を築き上げた。「西」ドイツはちがった。個人に基本をおいて新しい民主主義国家を確立しようとして来た。それは「西」ドイツの強力な社会保障政策に見ていいことだが、「東西対立」の冷戦構造のなか、「NATO」(北大西洋条約機構)に加盟して再軍備を余儀なくされて軍隊を創設したとき、「西」ドイツは、憲法に当たる「基本法」の「宗教、良心の自由」を「不可侵」とする第四条に「何人も、その良心に反して武器をもってする戦争の役務を強制されてはならない」の一項をつけ加えた。
今、おしなべて「良心的兵役拒否」の法制度をもつ西ヨーロッパ諸国のなかでもドイツは、「良心的兵役拒否者」の数が兵役につく者の数を上まわり、老人介護の社会福祉は、彼らの兵役代替の「市民的奉仕活動(シビル・サービス)」なしには成立し得ないと言われるまでになっている国家だが、その国家の「良心的兵役拒否」はこの第四条のつけ加えに基づいての法制度だ。「有事法制」に対して、軍事、戦争を拒否する「平和主義」の「平和法制」と言おうか。
元来は、わが日本国憲法――「平和憲法」は「平和主義」に基づく「平和法制」であったはずのものだ。しかし、それは日本全体の「平和法制」であっても、日本人ひとりひとり、市民ひとりひとりの「平和法制」ではなかったにちがいない。すでにその全体は、強力な自衛隊という軍隊の存在によって、「安保」によるアメリカ合衆国との軍事連関によって、さらにアメリカ合衆国という名の「関東軍」がつくり出す「有事」の追認、追随、さらにはそれに法的な土台をかたちづくる「有事法制」によって、崩壊の危機にさらされている。これは軍事だけに限られた問題ではない。ことは日本の民主主義政治、その全体にかかわっている。 |
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