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2005年2月22日号
「文史哲」のすすめ
私は1958年から1年間、「フルブライト留学生」としてハーバード大に「留学」している。大学でたいして勉強しなかったが、アメリカ社会で暮らして大いに学んだ。その意味で「留学」と引用符つきでいつも書くのだが、それでも大学は寄付の要請もよこすが種々の報告、資料も手まめに送ってくれる(ついでに言っておくと、私は日本の東京大学を卒業しているのだが、そこからは何も来ない)。ハーバード大学はアメリカのピカ一大学―それを自認している大学なので、それらを読んでいると、アメリカ合州国の学問、知的世界の先端の動向がよく判る。
私が「留学」したのは、日本ではやりの「ロー・スクール」や「ビジネス・スクール」ではない。まったくはやらぬ(と思う)<Graduate School of Arts and Sciences>で、訳せば「芸術科学大学院」か。入っておどろいたのは私が専攻した西洋古典学とともに数学、物理学の学科もそこにあったことだ。なるほどこれが西洋の大学の根幹にある<Humanities>かと納得したが、これは、つまり「人間学」だ。
今、学問はあまりにも専門化、細分化されすぎてしまってよくない。ことに学問の最大の課題である「人間」をとらえようとするなら、今のような専門化細分化、されすぎてしまった学問では太刀打ちできない。もっと総合的に学問をたてなおすべきだ―との反省強く出てきて、とどのつまり「人間学」をつくれ。これは世界的な学問の動向だが、日本でもあちこちの大学で「人間何とか学科」ができたり「総合学部」が出現してきている(現に私はこの六月、広島大学総合学部制作科学講座に頼まれて話しにいくことになっている)。こうした動きのなかでは、わがハーバード大学の「人間学大学院」は時代遅れどころか逆に時代の先端を行っている。そのせいか最近そこから送ってきた報告は元気がいい。そこでも「人間学」(「ライフ・サイエンス」が原語だが、「生命科学」ではあまりにことが小さい。やはり、人生、生活、文化もろもろをふくめての「人間学」だ)を医学、歯学、公衆衛生などの「スクール」をまとめ上げての大計画でやるらしいが、その中心に位置するのは、もちろん、「人間学大学院」だ。そうことが決まれば、「人間学大学院」に元気が出るのは当然だが、もうひとつ元気が出るのは、「人間学大学院」をめざす志願者の数が激増していることだ。2004年度では9500人で、これは創立以来の歴史で2番目に多い数だ。そのうち700人が合格したが、なかで25%がそうした大計画専攻を希望している。そして、全体の3割が留学生、そのうちの2割が中国人。
こうした「人間学大学院」の元気のいい報告を読んで私が考えることのひとつは、学力テストに示された日本の子供の学力の低下で、数学をもっと教えろ、漢字を丸暗記させろとせっかちに騒ぎ立てないで、問題をもっと総合的、それこそ「人間的」にとらえて方策を講ずる必要があることだ。ことに今、目のカタキにされているのが「ゆとり教育」の総合学習だが、世界の学問、大学での「人間」「総合」重視の動向を見ていると、「ゆとり教育」の総合学習は世界のその動向にじかに結びついていて、私はまさにいい線を行っていると見える。それがうまく行っていないのなら、うまく行かせるように手間とひまと金をかけて努力すべきで、朝令暮改式にやり始めたかと思ったらうまく行かぬ、やめる――では、せっかくの小学校での「ゆとり教育」の総合学習は大学の総合学問の「人間学」に結びついて行くはずがない。
学力テストで韓国の子供のできがよくて、韓国の教育のことがよく引き合いに出される。しかし、取り沙汰されるのがたいていノーベル賞めざしての英才教育、記憶力増強の特殊教育のたぐいばかりで、そんなことを今さらここで論じてみても仕方がない。それよりは韓国に昔からある「文史哲」の考え方について少し考えておきたい。
「文史哲」の「文」は広範な意味での文学。「史」は歴史認識、「哲」は哲学、思想。この三つが土台にあって人間のまともな「知」は成立する――これが私の解する「文史哲」の思考だが、この思考は韓国にあっても今ははやらぬものになってきているし、これが韓国の子供の学力の高さにつながっているとせっかちに言うつもりはない。ただ、それでも韓国はこの「文史哲」の思考が根にあって来た社会だ。それはそれだけものごとの処理、解決にあたって、そうした思考の伝統のない日本人とくらべて原理原則的、論理倫理的、思想的であるということだろう。それは問題をただ技術的にかたづける」のではなく、根源にまでつきつめて考えることだが、学問は、この根源的なつきつめの上にかたちづくられるものだ。そう考えれば、韓国社会、韓国人の根にあって来た「文史哲」の思考は、どこか根本的なところで韓国の子供の学力の高さにまで結びつく。私たち日本人も日本の社会も「文史哲」の思考を今必要としているのではないか。小学校の「ゆとり教育」の総合学習、大学での総合学問の「人間学」も「文史哲」が土台にあってまともなものになる。 |
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