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1999年8月31日号
「平和主義」か「戦争主義」か―「良心的軍事拒否国家」日本の選択
日本は、今、「NATO」(北大西洋条約機構)軍のユーゴスラビア連邦に対する「空爆」後、戦争と平和の問題に関して、「平和主義」か、「戦争主義」かのきびしい決断に迫られて来ているように見える。
「戦争主義」と言っても、何ごとも武力に訴える「好戦主義」ではないし、まして、他国、他民族を武力で侵略する「侵略主義」ではない。できるかぎり平和的、政治的に問題解決をはかるが、やむを得ざるときには武力解決、戦争をも辞さない。これが私の言う「戦争主義」だが、この定義づけで、逆に「平和主義」の本質もあきらかになる。何ごとであれ、徹底して問題の非暴力解決をはかって、武力、戦争に訴えることをしない―これが「平和主義」だ。
「戦争主義」が行う戦争は「正義の戦争」だ。そう主張される。この主張に対して「平和主義」は、いかなる理由、大義名分に基づこうが「正義の戦争」はないし、武力、戦争によっては、根本的に解決し得ないとする。
「NATO」に言わせれば、「空爆」は「正義の戦争」、だから、なすべき戦争だった。それは「NATO」が「戦争主義」によって形成、組織されて来た軍事集団だから当然のことだ。「空爆」の事実上の主体となったアメリカ合州国もイギリスもフランスもドイツも「好戦主義」、まして「侵略主義」の国ではない。すべて民主主義の大「先進国」として自他ともに許す国だ。ただ、彼らの民主主義は「戦争主義」によって裏付けられて来ている。この民主主義の大「先進国」に対してユーゴスラビア連邦のミロシェビッチ政権は民主主義の程度においてはるかに劣る政権だし、「空爆」の理由づけになったコソボの「民族浄化」政策は許すべからざる反民主主義の独裁強権政治だ。「戦争主義」に基づけば、この事態は「空爆」が「正義の戦争」として正当化される事態になる。「みどりの党」出身で、現代世界での民主主義の代表的人物といえるドイツのフィッシャー外相は「『西の民主主義』(ウエスタン・デモクラシーズ)はこの戦争を行い、勝利しなければならない」(「ニューズウィーク」4・19)とまで説いた。
こうした「西の民主主義」の「戦争主義」の論理、倫理、「空爆」という実際の行動の展開にまっこうから異をとなえ、あくまで軍事力の介入によっては民族の紛争が複雑にからまったバルカン半島での問題の根本的解決にならないと主張して、「EU」(欧州連合)、「NATO」の一員でありながら、問題の平和的、政治的解決を求めて「空爆」に終始一貫反対してきたのはギリシアだった。ギリシアは日本のように「平和主義」を基本の原理とした「平和憲法」をもつ国ではない。しかし、こと「NATO」軍の「空爆」に関して「平和主義」は徹底していた。当の「平和主義」の「平和憲法」の日本がいち早く「空爆」理解を表明したのとくらべてギリシアの「平和主義」はきわだっていた。
「平和主義」は、ただ手をこまぬいて戦争が起こるのを見ていることではない。まして、事態の推移にまかせてずるずると「戦争主義」に引きずられて、自らを「戦争主義」に変えてしまうことではない。もっと積極的に「平和」の実現のために、自らが動くことだ。私が理解できないのは、「西の民主主義」ともユーゴスラビア連邦とも親しい関係に立ち、そして何より「平和主義」を「国是」とする日本が、ギリシアはもちろん、ロシア程度にも平和解決へむかってまったく動こうとしなかったことだ。
いや、日本は何もしなかったどころか、「空爆」のさなかに新「ガイドライン」設定の名の下に「安保」を拡大、強化してアメリカ合州国を媒介として「NATO」に自らを結びつけ、「正義は力なり、力は正義なり」の「戦争主義」を見本としたアメリカ合州国の「アメリカの平和」(パクス・アメリカーナ)の核心部分に自らの位置を強力に定めた。
私がここで考えたいのは、「平和主義」の個人的実践である「良心的兵役拒否」のことだ。今、それこそ「西の民主主義」のなかで個人の良心に基づく権利として認められて来ている「良心的兵役拒否」は、ただ銃をとらないことだけのことではない。「軍事的奉仕活動」(ミリタリー・サービス)に代って非暴力の「市民的奉仕活動」(シビル・サービス)を自らの権利としても義務としても行うことだ。たとえば、障害者、貧困者、難民などの社会的弱者の救済、活動、平和教育活動、あるいは、救急車の運転手になる、精神病院の看護夫として働く。私はこれまで「西の民主主義」のなかで何人もの「市民的奉仕活動」を行う、行って来た「良心的兵役拒否」の若者に会った。そのうちのひとりが言ったことばが私には忘れられない。「自分のしていることは、単に武器をとらないという消極的な行動ではない。『軍事的奉仕活動』では世界はよくならない。『良心的兵役拒否者』の『市民的奉仕活動』の積極的行動こそが根本的に世界を変える、よくする」―。
「平和憲法」をもつ日本は、いわば「良心的軍事拒否国家」としての道を選択した国だ。これまでよく言われて来た「非武装・中立」では、ただ、銃を取らないと決めただけのことだ。積極的に国として平和形成、維持の「市民的奉仕活動」を行ってはじめて、「平和憲法」の「平和主義」は生きる。生きて、世界を変え、よくし得る。たとえば、今、世界的に問題となって来た債務に苦しむ「第三世界」の国々に対する利子、いや、債務そのものを帳消しにすることを日本が率先して行い、あるいは、「西の民主主義」から巨大な旅客機を何機も買い、難民救援機として飛ばして、いつ、いかなるときでも、いくらでも難民を引き取り、世話をする。その翼には「日の丸」をつければよい。その「日の丸」は、そのとき、かつての「侵略」国日本の「日の丸」ではない。今、現在の「良心的軍事拒否国家」、「平和主義」国日本の「日の丸」だ。 |
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