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2005年11月29日号
「大東亜戦争」を再考する
私は何ごとについてであれ、外から強いられたものでない、内在的な批判が必要だと考えている。その認識に基づいて、十二月八日、大阪で「『大東亜戦争』を再考する」と題した市民集会を反戦平和の市民運動の仲間とともに開く(子細は〇七二九‐九八‐一一一三)。
「十二月八日」の日付の意味はあらためて言う必要はないにちがいない。今から六十四年前、一九四一年十二月八日に、日本は、どんづまりに来た「日中戦争」――中国に対する侵略戦争のそのどんづまりを戦争を大きくアジア、太平洋地域にひろげて打開しようとして、「大東亜戦争」を始めた。
戦争の名称に当時の呼び方の「大東亜戦争」を使って、今やふつうに使われるようになった「アジア、太平洋戦争」と言わないのは、あの戦争の問題をあくまでそれ自体に即して考えたいからである。「アジア、太平洋戦争」と言えば、どうしても外からの視点、後世、戦後の視点が入る。外からの、戦後の視点のないところで問題をとらえて考える。それが「『大東亜戦争』を再考する」の意味だ。
まずここで述べておきたいのは、「大東亜戦争」に先立つ「日中戦争」――これも当時の言い方を使って言えば「支那事変」は当時、小学校の低学年生だった私をさえ納得させる戦争の理由づけをもっていなかったことだ。学校で先生が言ったことは「東洋平和」樹立のために日本は言うことをきかぬ支那をこらしめるために戦争しているのだという理由づけだったが、この「平和のための戦争」「膺懲(ようちょう)支那」は幼い私をさえ納得させ得なかった。
それに対して、積年の西洋の力づくの支配の下で苦しんで来たアジアの各民族を日本のやむをえざる武力行使によって解放し、アジア各民族共存共栄の「大東亜共栄圏」を確立するという「大東亜戦争」の理由づけは、長年西洋のアジア侵略、支配という歴史的事実の重みをもっていて、すでに「国民学校」三年生になっていた私を納得させた(「大東亜戦争」開戦の年に小学校は「国民学校」になった)。この理由づけは私だけを納得させたのではなかった。多くの日本人はそう考えた、いや、そう考えることを自分に強いた。
この理由づけのゆえに「大東亜戦争」は正義の戦争、そして「聖戦」だった。「聖戦」は勝たなければならない、いや、勝つ――この全体が「大東亜戦争」の大義名分をかたちづくった。この大義名分の下、日本人は戦った。戦わされた。
しかし、この大義名分には、多くマヤカシがあった。マヤカシのひとつは、アジア民族の共存共栄、「大東亜共栄圏」の確立を標榜しながら、中国に対する侵略戦争をつづけ、朝鮮、台湾に独立を許そうとしなかったことだ。あるいは、「大東亜共栄圏」の理想はなるほど口にしたが、日本が勝利したあと、それをいかなるかたちで実現するのか、具体的な戦後の世界構想を日本はまったくと言っていいほどもっていなかったこと――これもマヤカシのひとつだ。いや、日本はほんとうに戦争に勝つつもりいたのか。
「帝国議会衆議院秘密会議事速記記録集」(衆栄会・一九九六)という興味深い一書がある。何が興味深いかと言うと、「明治」三一年一二月二三日の「秘密会」から始まり「昭和」二二年三月一四日の「秘密会」に終わるこの「議事速記録」には、当時の「政府委員」がかなりアケスケに秘密にされている事実、事態を述べるとともに、政府が考えていること、やって来ていること、これからやろうとしていることをこれもかなり正直に話していたからだ。たとえば、「昭和」二〇年三月一〇日の死者十数万人を出した東京大空襲の翌日一一日の「秘密会」で死者「約二万一千五百名」、三月一八日の「秘密会」では「七万三千」とかなり事実がかくされずに報告されていた。そして、「昭和」一八年三月三日の「朝鮮統治ノ方針ニ付テ」の「秘密会」では、従前の独立運動に加えて、アジア各民族の共存共栄の「大東亜共栄圏」の新しい理想の下の独立運動が起こりつつある。これをいかに取り締まるかが問題だと「政府委員」が述べていた。
しかし「アジア各民族の共存共栄」の現実がどうだったかも「秘密議事速記録」はあからさまにしてくれている。「昭和」一八年二月一日の「南方占領地区域ニ於ケル陸軍軍政ノ状況ニ付テ」の「秘密会」の「議事速記録」は三段組み十六頁におよぶ長いものだが、大半が「軍政」のこまごまとした現状報告と占領地域における石油、鉄鉱石その他の資源の確保とその輸送の問題にあてられていて、そこでの民族の独立の問題についてはビルマだけが言及されているものの三段組み、一頁一段のみの取り扱いだ。そして他にはあまた行われた「秘密会」全体で「共存共栄」についての言及はない。これは「大東亜共栄圏」の理念、理想はホンネのところで誰も考えていなかったことではないのか。
そして、ほんとうに政府のえらいさん方は「大東亜戦争」に勝つつもりいたのか。「昭和」一九年九月八日の「秘密会」では「海軍中将」の「政府委員」が、この「秘密会」はサイパンの守備軍玉砕、失陥、マリアナ海域での敗北のあとでの「秘密会」だったが、そこで「日本ガ『ワシントン』に於テ域下の誓ヲナサシメテ此ノ戦争ヲ終末スルト云フコトハ、是ハ初メカラ出来ナイ相談でアリマシタ」と堂々と述べていた。 |
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