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1999年9月28日号
「経済大国」から「平和大国」へ―転換の「世界構想」
1932年、前年の「満州事変」につづく「上海事変」の年に生まれ、「支那事変」「大東亜戦争」のなかで育った日本人として、私にはいまだによく判らぬことがある。それら一連の戦争―ことに「大東亜戦争」が、「東洋平和」の樹立と「西洋」の支配からのアジアの解放をめざしたものであったという主張を文言通りに受け取るとしても(私が子供のとき、教え込まれたのはその二つの目的だった。二つを前提として、目的実現の「聖戦」において「天皇陛下に生命を捧げる」があった)、判らないのは、二つの目的を達成したあと、日本がどのような世界をつくり出そうとしていたのか―そのことだ。それはまったく明らかでなかった。
「明治」以来の日本の目的は、「西洋」に追いつき、追い越せ、だった。その「西洋」に今や追いついた―いや、この「大東亜戦争」において打倒しようとさえしている。しかし、そのあと、世界はいかに構築されるのか、その「世界構想」はなかった。あるいは、急ごしらえに喧伝された「八紘一宇」のようにお粗末だった。そのお粗末さを衝いて、ヴィシー政権の「中立」のおかげで「大東亜戦争」の期間の大半を東京に滞在できたフランスのジャーナリストのローベル・ギランは彼の滞在記「日本人と戦争」のなかで、日本の「世界構想」のなさ、貧しさを論じた(「大東亜戦争」を「正義の戦争」として肯定する論者に私がききたいことは、日本が勝利していたら、どのような世界がつくられていたか、ということだ。誰もそれは論じていない)。
武田泰淳が戦時中に書き、世に出した彼の代表作のひとつ、「司馬遷」の「『史記』の世界構想」のなかで、次のように述べていたのは、彼も日本の世界構想のなさ、貧しさを見てとっていたからだろう。「日本人は今、自分の力をあらん限り出しつくして戦っている。日本の力はますますひろく世界の中へひろまり、世界の人々が日本人の力におどろき、おそれているのと同時に、日本人自身が自分の力のかぎりない大きさを、あらためて自覚しはじめている」「日本人は世界を、自分の頭で考えはじめた」「日本国民の肩にかかっているのは、一日本国民の運命ばかりではない。世界の運命がのこらずかかっている」「日本人の力が『世界全体』を支えているのであるから、日本人の考えも『世界全体』を支えなければならない。わたくしたちには『世界全体の歴史』を自分のものとして、考えなければならない。このとき二千年も以前の漢人が書きしるした『史記』がわたくしたち日本人に呼びかけてくる。『全体のことを考えましょう。世界のことを考えましょう。わたしくしたちには充分、その力があるのですから』」
この「史記」の呼びかけに応じることは、「史記」の世界の「世界構想」に従うことではない。「漢人」司馬遷の書き記した「史記」の世界は「正義は力なり。力は正義なり」の「覇道」の世界だ。日本の「世界構想」はその「覇道」の「世界構想」といかに異なった「王道」のものとしてあり得るか―武田のことばにはその思いがこもっている。
しかし、日本には、そうした「世界構想」はなかった。あったのは、ただの「正義は力なり」「力は正義なり」の「覇道」の「世界構想」だけだ。
戦後日本もまた、「西洋」に追いつき、追い越せ、をめざした。結果として、「経済大国」ができ、そのかたちで「西洋」に追いつき、追い越しさえした。それは日本がべつの意味で武田が述べた「世界構想」を必要とするときに来たことだ。
しかし、「世界構想」は、「正義は力なり、力は正義なり」の軍事、政治、経済を強行するアメリカ合州国の「世界構想」に追随することではない。自らの理念に基づいた自まえの「世界構想」が今必要なことだ。当のアメリカ合州国の経済学者、ジョン・ガルブレイス氏が最近のインタビューのなかで、「アメリカの模倣をやめよ」と述べたあと「21世紀に日本は何をすべきか」の質問に示唆に富む発言で答えている(「毎日新聞」99・9・21)。「来世紀に最も重要なことは、平和を維持することであり、日本に強調する必要はないかもしれないが、核兵器をコントロールすることだ。日本にとっても最も重要なことは、日本の人々が満足や幸福を感じることができる政府、社会、経済システムを作り、世界の平和や福祉に貢献することだ。日本は、他のアジア諸国や、世界のモデルになってほしい」
このガルブレイス氏の発言はまさに「世界構想」だが、目新しい気がしないのは、これがまさしく日本国憲法の「平和主義」理念に基づく「世界構想」であるからだ。多くの日本人がこうした「世界構想」を理念として生きて来た。ただ、長いあいだ日本は、この「世界構想」を実現できる力をもたなかった。しかし、今、「経済大国」は十分にその力をもつ。私が今不思議に思うのは、日本がその自分の力の自己認識をもたずに「アメリカの平和(パクス・アメリカーナ)」と「グローバリゼイション」にのまれ込むかたちで自らの重要な「世界構想」を失いつつあることだ。この「世界構想」実現への力の行使、努力は日本の「経済大国」から「平和大国」への転換を必然にする。この転換は、世界にとっても日本自体にとっても、今もっとも必要なことではないのか。 |
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