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2005年6月28日号
孫文の「大アジア主義」の「遺言」
「中国革命の父」(とよく言われる)孫文は国民会議召集のため彼の革命根拠地だった広州を離れて北京に出かけ、「革命未だ成らず」の遺言を残して客死した。そのまえ1924年11月に神戸に来て、28日午後、当時の県立神戸高等女学校で「大亜細亜問題」と題して講演している。3000人がつめかけた。彼の持論の「大アジア主義」を論じた講演だが、公的に彼が話したのはこれが最後だったから、これは文字通り遺言の講演だった。日本人に対してだけの遺言ではない。中国に対しても、アジア、世界に対してもの遺言だ。残された公園の文言には、その気概と力がこもっている。
あまりにも世に知られた講演なので今さら書くまでもないことかも知れないが、彼はそこで、現代世界の支配者となった西洋をただ弾劾、否定しようとしたものではない。その文化も、科学技術であれ、工業であれ、軍事力であれ、自衛のためにもアジアはもつ必要があると言い、その上で西洋の文化の本質は物質文明であり、その中心にある軍事力で世界を支配して来た覇道の文化だと主張する。
アジアにあって、日本はいち早く西洋の覇道の文化を身につけ、身につけることでめざましく発展してアジア全体の地位を高め、アジアに希望をあたえるに至ったが、もともとアジアの文化は、中国がその基本となる例だが、仁義道徳を土台とする王道の文化だ。アジアは、西洋流の覇道の文化の追求をやめ、王道の文化を確立しないかぎり、アジアはアジアとしての力をもたない。アジアがその力をもたない限り、西洋の覇道の文化の世界支配はつづく。
アジアよ、起て、よろしく王道の文化をかたちづくって、西洋の覇道の文化のアジア支配、正解支配をくつがえせ。
これが大きくまとめ上げて言って孫文の「大アジア主義」だが、彼はこの講演を次のことばでしめくくったとされている。
「日本民族はすでに欧州覇道の文化を得た。またアジアの王道の文化の本質を有している。これ以後、世界の前途の文化に対して、西方覇道の手先となるか、東方王道の干城となるか、あなた方日本人が慎重に選ばれればよいことだ。」(「民国日報」1924・12・8)
今、私が「しめくくったとされている」と書いたのは、実際には孫文は講演でこのことばを話さず、もとから原稿にはあったのか、それともあと書き加えて中国の新聞に発表されたと言われているからだ。
事実は今となっては判らないが、孫文は日本人の反発をおそれて口にしなかったとうがったことを言う人もいる。私がこうした憶測に組みしないのは、孫文は何も日本人をよろこばすために、この「大アジア主義」の講演をしたのではないからだ。なるほど、この講演には日露戦争の勝利をはじめとして日本人をよろばせる個所はいくつも出て来て、当時の新聞報道は「拍手」と聴衆の反応を各所で示している。しかし、講演で彼が言ったことは、日本よ、この覇道の文化の勝利でよろこんでいいのか――その問いかけは全体にみなぎっている。
宮崎滔天のようなすぐれた日本人を友とし、同時に彼の革命遂行のためにあまたくだらぬ日本人ともつきあってきた孫文ほど、私は日本を知った中国人はいないと考えるのだが、講演全体の文言を読んでいて私が感じるのは一種の突き放した口調、論調だ。日本を頼ってああしてくれ、こうしてくれと頼んでいるのではなかった。ここで考えておきたいのは、彼の死でこと志に反する結果となったとは言え(彼が北京で生きていても、そうことはうまく運んだとはとうてい考えられないが)、彼の主観では彼はそのとき中国全土統一、革命実現のトバ口に立っていたことだ。その革命中国は、もはや、日本に頼らずにやって行ける広大な中国だ。その革命・独立中国を背後にして、孫文は、日本人よ、それではあなた方はどうするのか、と訊ねていた。
そのあとの歴史をここでおさらいするつもりはない。その後の日本は変らず覇道の文化の道をとり、ついに自滅した。自滅の結果、日本人の多くが考え、決意したことは、もはや覇道の文化の道をとらず王道の道をとって生きることだ。その決意のあかしとしてあったのが、あって来たのがその根本に「第九条」をもつ新しい憲法だった。それを王道の文化のあかしとして自分にも中国人にも他のアジア人にも、いや、世界全体に示して、戦後60年を私たち日本人は生きてきた。私はそう信じている。
しかし、今、このあかしを変えよう、いや、捨てようとする動きが日本のなかに強力に出て来ている。また、かつての覇道の文化をよしとするさまざまな動きも広く、また、強力に出て来ている。その動きは今、現在にかかわっての同種の動きにも強力につながる。覇道の文化には、ただ経済の推進でことをかたづけようとする文化も入っている。孫文の「大アジア主義」の「遺言」を日本人はもう一度あらためて考えるべきときに来ている。 |
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