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2000年5月30日号
「神国日本」・天の力の貫通
「明治」の日本がそれなりに「近代国家」であり、その政治の根幹をかたちづくった「明治憲法」―「大日本帝国憲法」が「近代国家」のカナメの立法、行政、司法の「三権分立」を明確に定立し、言論の自由、集会、結社の自由なども制限つきのものながら保証され、天皇もこの「近代国家」の法秩序のもとにおかれて、「明治日本=近代国家」説の強力な主張者の司馬遼太郎のある対談のなかでの発言を借りて言えば、「天皇はほとんど象徴的で、国務大臣が輔弼する。そして最終責任は国務大臣にある。天皇は無答責、つまりエンプティの場所に置いてある」(「日本という国家」、「世界」1995年6月号)―というたぐいの言説が最近はやって来ているようだ。
こうした言説を強力、強引に形成して来たのが、たとえば今発言を引用した司馬だが、問題は「昭和」に入って、軍人たちが政治の中心に躍り出て、よってたかってこの「近代国家」を叩きつぶしたことだ。この叩きつぶしの武器としてあったのが彼らを「三権」の外に置く天皇の「統帥権」だった。「統帥権」をしたい放題に彼らは使い、この「統帥権」の「干犯」が「近代国家」を叩きつぶして日本を破滅に追いやった―というのが、今をはやりの「司馬史観」の基本の歴史認識だ。
しかし、私がふしぎに思うのは司馬のみならず「明治日本=近代国家」を主張する論者が、天皇にかかわってのかんじんカナメの問題をまったく無視し去っているように見てとれることだ。
なるほど天皇はこの「近代国家」の法秩序のなかで、政治にはもっぱら「輔弼」によってかかわる「象徴的」存在であったかも知れない。いや、司馬によれば、この象徴性は「明治憲法」が範としたプロシア憲法より徹底していて、日本の天皇、プロシア皇帝はともに政治の「大権」をもっていたが、日本の天皇の「大権」はプロシア皇帝とちがって「実行権」ではなかった。「ドイツのカイゼル―皇帝です―は政治においてきわめて能動的な権力をもっていましたが、明治憲法における日本の天皇は、皇帝(カイゼル)ではなかったのです。日本の伝統のとおり、立法・行政・司法においていかなるアクションもしませんでした(「明治という国家」)。なるほど、これでは天皇はまさに「象徴的」存在だったということになる。
しかし、「明治憲法」にあっては、「大日本帝国ハ万世一系の天皇之ヲ統治ス」るのだが、その「天皇ハ神聖ニシテ犯スヘカラス」の存在―「現人神(あらひとがみ)」であった。この事実は、奇妙なことに、故意にか無意識にか、司馬たち、「明治日本=近代国家」の主張者たちによって問題にされていない。
天皇は「神聖ニシテ犯スヘカラス」によって、「現人神」天皇のもつ「統帥権」は神性をおび、「統帥権」自体が「神聖ニシテ犯スヘカラス」ものになる。なるほどドイツ皇帝は日本の天皇にくらべてはるかに強力な権力の行使者としてあったかも知れない。しかし、彼は「現人神」ではなかった。彼も「三権」の外に立つ「統帥権」をもち、まさにその強力な行使によって第一次世界大戦を起こし、自らの破滅をふくめて帝政ドイツの破滅を招くに至ったのだが、その「統帥権」は神性をおびていなかった。
「昭和」の軍人たちが、武器とした「統帥権」がなぜあのように強大無比のものになったかは、この「統帥権」が神性をおびた事実を抜きにしては論じられないにちがいない。神性をおびていたからこそ、上官は兵士を天皇陛下の名の下に安心してひっぱたくことができたのだ。
「天皇ハ神聖ニシテ犯スヘカラス」の論理的、倫理的根拠は何か。それは天皇が「天孫降臨」によって天上の高天原(たかまがはら)の神の世界から地上に降りた天照大神の後裔であるからだ。だからこそ、彼は「現人神」であり、彼が「万世一系ノ天皇」として「統治」する日本は「神国」だったのだが、そこから考えれば「明治日本」は「近代国家」であるとともに当然「神国日本」であったことになる。その当然の事実を「明治日本=近代国家」説の主張者たちは故意にか、無意識にか、軽視、あるいは無視し去っているように見える。
世界のたいていの民族は自らの出目にかかわって「創世信仰」をもつ。ただ日本の歴史のように「宇宙発生神話を含む民族信仰が」「一貫した『歴史的』構成のなかに組み込まれているのは、国際的にみてもきわめて特異である」と丸山真男は指摘する(論文=歴史意識の「古層」)のだが、たしかに神話が歴史とそのままつながり、そのつながりがそのままつづいて、現代に至るという民族、国家のありようはまず例がないにちがいない。
もちろん、世界には、天をその起源とする民族信仰も多くある。しかし、その起源はそのまま歴史と直結はしない。歴史は天の神の世界から切れたものとしてある。中江兆民は、天皇の権力のおそろしさを無限の力をもつ、「天」に諷して「天の説」を書いたが、まさに天の力は「明治日本=近代国家」を貫通していた。そしてその貫通は「昭和」まで伸びて、「近代国家」を叩きつぶした。
しかし、そうしたことは完全に過ぎ去った過去の事態なのか。かっての事態は天皇が「象徴的」存在だった、そのはずだった時代において起こったことだが、天の力はまぎれもない「近代国家」としてある、天皇が明確に「象徴」として存在する戦後の日本の歴史を貫通しつづけて来ているのではないか。森首相の「神国日本」の発言はその事実を今強力に示唆しているように見える。 |
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