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2001年4月24日号
「飛び級」よりも「亀」教育を
経済にかかわってだけのことではない。今、日本は、多くのことがらにおいて、根本のところから考え、変えることが必要な事態に来ているようだ。私がこの「西雷東騒」で論じて来たことの多くは、この根本的変革にかかわっている。日米関係について、私は、再三、関係のゆがみは、関係が「安保」(日米安全保障条約)という「軍事条約」を基本にしたものであることから来る、と説いて来た。ゆがみは、「安保」をやめ、「覇権を求めず、求められず」を原則とした「日米友好平和条約」を日米間に結び、その「非軍事条約」を基本にしたものに関係を変えないかぎり是正されないと主張した。これは私の長年の持論だが、最近になって後藤田正晴氏もその趣旨の発言をすれば、「社民」党もかつての「安保」堅持の立場をやめて、「日米友好平和条約」締結を主張するように変わって来ている。それはいいことだが、逆に言えば、ゆがみがこの根本的変革を必要、必然にするほどひどいものになって来ていることだ。
教育の問題もそうだ。教育も根本的変革を必要、必然にする事態にまちがいなく来ている。ただ、私は、今ここで「教育基本法」の問題を論じようとしているのではない。私がここで述べておきたいのは、もっと単純明快、だぶん誰にも異論がないだろうことだ。
学校「スクール」の語源はギリシア語の「スコレー」―「ひま」である。「ひま」があるからこそ人間はゆっくり学び、学んだ「知」を土台にして考えることができる。学校はそのための場だ。「ひま」には、必然的に「ゆっくり」が結びついている。また、学校の目的は「知」を学ぶこと自体にあるのではない。学んだ「知」を土台にして考えることにある。
日本の学校は今この基本の逆をシャニムニ突き進んでいるように見える。膨大な量の学ぶべき「知」を生徒にあたえる。いや、強いる。入学試験の重圧もあって、詰め込み教育は必然になる。「ゆっくり」はここにはない。落ちこぼれはいくらでも出て来る。とどのつまり、教える量を減らせ。減らして「ゆとり」をつくれ。いや、そんなことをしたら、学力は低下する。大学へ入っても、高校生程度の授業が必要になる。これでは日本の未来は暗澹、国際競争力がなくなる!
こうした今はやりの議論を聞いていて、ひとつふしぎなのは、根本的な問題が論じられていないことだ。くり返して書いておく。学校はゆっくり学び、考える土台をつくる場だ。「知」の獲得を強いられる詰め込み教育には、かんじんの考えることがない。「ゆっくり」が基本にある以上、教育には時間がかかる。教育を論じるなら、まずそこから考えるべきだが、それが一向に論じられていない。
昔の日本の教育を考えてみよう。かつて日本の義務教育は小学校六年だった。戦後、中学校三年が加わって、九年になった。これは教育には時間がかかるという基本認識から見て、いいことだ。しかし、昔とちがって今多くが行く大学のことを考えると、大学へ入るまで昔は(旧制)中学校五年(例外的に四年で大学へ入る秀才がいた)、(旧制)高校が三年で、八年であったのに対して、今は、中学三年、高校三年で六年。小学校から数えると、昔は十四年、今は十二年。二年短い。
二年短い上に学ぶべき「知」の分量は昔とくらべてはるかに多い。詰め込み教育、あるいは、落ちこぼれは必然の結果になる。教育の基本の「ゆっくり」はここにはない。
私の考える教育の変革は、中学、高校を共に四年制にすることだ。現行より二年増えて、計八年。昔と同じことになる。これでいやおうなしに「ゆとり」ができて、ゆっくり学び、ゆっくり考えることができる。円周率を簡単にして「ゆとり」をつくり出すというたぐいのコソクなことをしなくてすむ。万事に「ゆとり」ができれば、「塾」の存在も必要でなくなる。ついでに「高校」も「全入」、義務化すればよい。日本がゆたかになったのなら、それくらいのことはするべきだ。国際競争力ばかりを気にかけてあいもかわらぬ「経済大国」の道をマイ進するより、知的にゆたかで、そして、何より自分でものを考える市民の国をめざす。それがゆたかな国であるということだ。今のやり方でやって行げば、「飛び級」をやれるようなひと握りの人間が他を支配する国になることは必然だ。そうした「飛び級」よりも、教育全体をもっとゆっくりした「亀」教育にすることが必要だ、日本の未来にとって。 |
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