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2003年5月27日号
まず「市民安全法」を―市民にとっての「有事法制」づくり
誤解のないようにまず書いておきたいのは、私は「有事法制」の考え方そのもの――「有事」にさいしての法制度が必要だという認識そのものについて反対しているのではないことだ。
私は八年前、1995年1月、「阪神・淡路大震災」の現場で、こうした法制度がないまま、被災者が右往左往しながら見棄てられ、「棄民」と化した惨状をあまた見た。被災者のひとりとして、私が、こうした自然災害の場合にかかわっての「有事法制」が必要だと考え出しても当然のことだ。法律がないなら、市民がつくり出そうと私が言い出し、キモイリともなって始めた被災者に対する公的援助を求めた「市民=議員立法」運動も、こうした「有事」にさいしての法制度づくりのひとつと見ていいにちがいない。私たちはその運動のなかで、自然災害の「有事」に敏速、全般的に対応できる公的機関として、「危機管理庁」の設立」までをも提案している。ただ、ここでひとつ必須不可欠の条件として言っておきたい。それはすべての対応が非暴力、非武装で行なわれることだ。
これだけの前提をおいて言うことだが、私は、今や野党民主党までが政府・与党と手を組んで実現しようとしている「有事法制」づくりには正面きって反対する。ここでつくられる「有事法制」は日本のためにならない、かんじんの日本の市民のためにならないからだ。今すぐやめよ。根本からやりなおせ。私はそう主張する。
私の主張には、二つ、根拠がある。ひとつは、まず、ここで想定される「有事」がアメリカがらみ、米軍がらみの「有事」であるからだ。そこにさらに自衛隊がからみ、米軍、自衛隊の「有事」にさいしての活動を円滑にする――そのための「法制」づくりが、今行なわれていること、行なわれようとしていることだ。この「法制」づくりの前提としてあるのは、「有事」にさいしてアメリカ、米軍、そして、米軍とともに動く自衛隊が日本を護(まも)ってくれる、市民の生命、安全を確保してくれるという認識だが、まず、かんじんのアメリカ、米軍はほんとうに日本を護るのか。市民の安全を確保してくれるのか。
私はここで軍隊ははたして市民を護るのか、世界の歴史はその逆の実例に充満していると大議論をするつもりはない。日本軍の動きと逆の方向に逃げた住民は助かった沖縄戦の事例をここで持ち出すつもりもない。ただひとつ書いておきたいのは、今のブッシュ政権下のアメリカ、米軍がそれまでのアメリカとちがったものとしてある事実だ。
どうちがったものとしてあるのか。端的な例が前政権クリントン政権下のアメリカとの対比だろう。クリントンはそれまでのアメリカに指定された「ナンバー・ワン」の超大国、世界全体ににらみをきかせる世界の「警察官」の役割をやめて、アメリカが「ふつうの国」として生きることを強く主張して大統領になったのだが、ブッシュ政権は今、まったく逆のことをやろうとして来ている。いや、そう、すでにやって来ている。ブッシュ政権の基本原理をかたちづくる「ネオ・コン」(新保守主義者)が2001年につくった「アメリカ防衛の再建」計画によれば、アメリカを同時に複数の大戦争を行い得る大軍事国家にし、世界各地に基地をおいて世界の「警察官」としてにらみをきかせ、これによって今すでにできつつある「アメリカ帝国」を頂点にしての世界再構成を完全になしとげて(「帝国」ということばはすでにわるいことばではない)、21世紀を「アメリカの世紀」にする――これを新しいアメリカ、米軍はめざす。
この大構想の下では、アメリカ、米軍は大構想に見合うかぎりは日本を護るかも知れないが、見合わなければ捨てるだろう。あげくのはてに、日本から引き退ったあと、必要なら逆に日本に攻撃をかける――これもあり得ることだ。「戦争」、そして「有事」は、もともとそうしたものとしてある。
もうひとつ、私が今の「有事法制」づくりに反対するのは、まず、こうしたことは、市民の生命、安全を確保するための法制度づくりがされて、それを基本にしてなされるべきことであるのに、これこそまさにアメリカ、米軍先行の事実を示すことだが、そちらをないがしろにしてことが進行しているからだ。これではまさに本末転倒の事態である。私が今述べた新しいアメリカと米軍の大構想を勘案してみれば、この本末転倒がどんなにおそろしい事態であるかはたやすく判るだろう。まず、どうして市民の生命、安全確保の法制度づくりがなされて来なかったのか。
片山鳥取県知事をはじめとして、今、かなりの数の知事が「国民保護」の法制度づくりを先行させよと主張して来ているのだが、私はもう一歩を進めて、市民は、軍、官その他にただ「保護」されるべき存在ではない、自らが人権と主権をもつ存在として、軍、官の命令拒否権、中立権、「非武装都市、地域」宣言権、敵、味方の軍、官に対する抵抗権、自主交渉権、自由独立権、場合によっては白旗をかかげて生命・安全の確保をはかる「白旗権」(兵士も捕虜になる権利をもつ。そして、それは決して不名誉なことではない)−こうした市民の権利を基本にした市民の生命、安全確保の「市民安全法」の法制度をもつべきだと主張する。この「市民安全法」を基本としてなされる「有事法制」づくり、これが、今、市民にとってもっとも必要なことではないか。 |
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