|
|
|
|
2002年4月30日号
小国の視点
四月半ば、私はギリシアへ出かけ、アテネ国立大学の英文科と哲学科でそれぞれ一度づつ講義をした。英文科では「日本文学」を講じてくれと頼まれたので、「日本文学」の重要な一部である「原爆文学」を、原民喜、峠三吉、栗原貞子三詩人の詩から私自身の「HIROSHIMA」(講談社文芸文庫)に至るまで論じた。哲学科の演題として先方が頼んできたのは「日本におけるギリシア哲学」。私は「明治」以来、日本が西洋の事物、思想で何を入れ、入れなかったかを論じ、ギリシア以来の哲学では、認識と分析の哲学は入れたが、民主主義ということばによる政治にとって重要、不可欠な修辞学は入れなかったと話した。英文科では英語で話したが、哲学科では「道元」の研究書を出したばかりの神学部の助教授を通訳にして日本語でしゃべった。彼は大阪外大に留学した人物で、おかげで私の「大阪弁」的日本語をなんとか訳せた。
私は三年前、一九九九年三月にもギリシアに出かけている。九九年は「日本・ギリシア修交百年」の年で、私はアテネで記念講演をした。アテネ大学での講義もそこでのつながりから実現したものだが、九九年は同時にコソボ紛争に端を発して、「NATO」(北大西洋条約機構)軍による「空爆」がユーゴスラビアに対して強行された年だ。ギリシアはユーゴスラビアのミロシェビッチ政権のコソボ政策を支持しなかったが、同時に、バルカン半島のような民族の利害が複雑にからみ合う土地において武力行使、戦争は問題を解決し得ない、逆に争乱を激化するとの認識のもとに、「EU」(ヨーロッパ連合)、「NATO」の一員でありながら、空爆に明確に反対の立場をとった。他人とちがうことを言い、生きることを誇るギリシア人がこれほど「挙国一致」になったことは歴史上なかった―とは、そのころよく言われたことだ。私が大阪からアテネに着いた日が「空爆」開始の日だった。その日からギリシア全土で「反戦デモ」がほとんど連日行われた。「NATO」軍の中核はアメリカ合衆国だ。「反戦デモ」は当然「反米デモ」になる。「USA」を「U卍A」とした落書きを私はよく壁に見かけた。「親米」で知られた政治家が、今わたしは「反米」だとテレビで発言したのもそのころのことだ。
昨年の九月の「同時多発テロ」につづくアフガニスタンに対するアメリカ合衆国の「報復戦争」、今、現在の「テロリスト」撲滅に名を借りてのイスラエルのパレスチナに対しての武力行使、いや、戦争に対してもギリシアは、戦争は問題を解決し得ない、逆に事態を悪化させるものだとして反対の立場をとって来た。そして、ギリシアは、古代の栄光の歴史のあと、トルコによる植民地支配に苦しみ、独立の回復なったあとも、程々の西洋の大国の横暴に振り回され、大国の力を背後にしての王制や、王制と結託しての軍事政権の強権政治に人びとが苦しんで来た「小国」なのだ。ようやくそうした苦難の過去からギリシア人自らがたたかうことによって解放された今、現在、彼らの共感が同じような苦難の歴史を今、現在の問題をしてもつ、もたされている弱者にむけられるのは当然のことだ。
アテネ国立大学での私の講義が始まる前日、四月一四日、日曜日の夜には、アテネの中心のシンタグマ広場では、広い広場を埋めつくして人が集まり、パレスチナ支援の大野外音楽集会が開かれていた。「非政治」を生き方の基本とする日本の音楽家には考えられないことだが、西洋の音楽家たちはこうした「政治」を核心にすえての音楽集会をよく行うものだ。ことに多いのがギリシア。一流、人気者の歌手、演奏家、作曲家が登場して音楽集会はよく行われるが、十四日のパレスチナ支援の集会はことのほか大きいものだった。
そこで私はビラを拾った。ビラの文句はただひと言。「カミカゼは貧乏人のF=16だ」。「カミカゼ」はギリシア文字でそう書かれていた。意味は、もちろん、最新式の武器を使って攻めて来るイスラエル軍(の武器は、たいていが「アメリカ製」だし、イスラエルの戦争を強力に支えているのはアメリカ合衆国だ)に対しては「自爆攻撃」しか貧しいパレスチナ、それにつながるイスラム世界、「第三世界」には抗する手段はないということだ。
若者のひとりが、ギリシアほどヨーロッパで「反米」の国はないと言った。言ってから、日本はどうしてそれほど「親米」の国なのかときいた。今、日本に、また日本人に徹底し欠けているのは「小国の視点」でものを見る、ものを考えることではないかと私はきかれてあらためて考えた。
「小国の視点」に立って世界を見るとき、「大国の視点」からは見えない問題、事態が見える。 |
|
|