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2004年4月27日号
イラクの13歳の少年―彼の眼に事態はどう見えているか
アメリカ合州国がイラク戦争の口実にしたフセイン政権の大量破壊兵器の所持は、まったくの嘘だった。そのうち戦争目的は独裁政治の打倒、民主主義政治の樹立にすり代わった。それが復興と並んで今の米軍による占領の最大の眼目だが、ブッシュ政権はひところ、その目的にかかわらせて、日本をその模範例としてもてはやした。日本の軍国主義政治をアメリカは強大な武力で打倒して、あと米軍の占領の下で民主主義を見につけさせ、そのおかげで今や日本は民主主義大国として世界に存在している――これがそのひところのもてはやしだった。しかし、このごろあまり言わなくなった。どうしてか。
日本が民主主義政治樹立の模範例としてふさわしくなくなったのか。それとも今のイラクは全土に拡がる、「反米」の台頭で、民主主義政治の樹立というようなのん気なことを言う前に、力の行使によって「反米」を押さえつけることが先決になっているのか。それとも民主主義政治の樹立という戦争目的のすり代えの化けの皮がはがれ落ちて来たのか。
私は敗戦の時十三歳、中学一年生の少年だった。そのせいか、イラクのことを考えるとき、同じ年代のイラクの少年が、独裁政権下の強権政治と米軍による一方的な殺戮と破壊だった戦争を体験し、今民主主義政治樹立を標榜しながら一方的殺戮と破壊を続ける米軍の占領下にいて、何をどう考えているかが気にかかっている。それは当時の私も、軍国主義下の強権政治と戦争を体験し、そのあと民主主義と自由をふりかざして日本に入ってきた米軍の占領も体験したからだ。
私にとって戦争は空襲だった。大阪に住んで、1945年3月13日の夜間空襲から8月14日、敗戦の前日に至るまで、大空襲も何度か体験した。空襲はまさに米軍による一方的殺戮と破壊だった。それでも私は日本は「負ける」と思わなかった。それは当時の少年の私の字引には日本の「敗戦」ということばがなかったからだ。しかし、「勝つ」とは、私はもう思っていなかった。とどのつまり、私は何はともあれ戦争は終わって欲しいと思った。子供は大衆をもっともよく代表、代弁するものだ。この何はともあれ戦争は終わって欲しい――は日本人の多くがそのころ思い、願ったことだ。
私が当時の日本政府の役人たちが狡知に長けた人たちだと思うのは、彼らが「敗戦」を「終戦」と言いかえたからだ。マヤカシだが、あれほど当時の日本人の気持ちに即した言い方はなかったにちがいない。従って、に本占領にやって来た米軍は「占領軍」ではなく、まさに戦争を終わらせてくれた「終戦軍」、その意味での「平和軍」だった。そのあと、この「終戦軍」「平和軍」は日本に民主主義を樹立するために「駐留」する「駐留軍」になった。
同じ事態が、米軍側にもあったと私には思える。「ナチ・ドイツ」と「軍国主義日本」を打倒する戦争目的をもった第二次大戦は彼らにとって文字通りの「正義の戦争」だったが、しかし、もう戦争末期、彼らも疲労コンパイ、その上その目的のために余りに殺戮と破壊をやりすぎた、いったいこれは何のためだ――という反省もあって、もう戦争はやめよう、戦争はこれで打ちどめにして戦争のない世界をつくろうという理想がアメリカ側に出て来て不思議はない。これはその理想に基づいての「平和憲法」制定への占領軍の動きにも結びつくのだが、この意味での「終戦軍」という言い方はピッタリする。そして、この「終戦軍」は日本に民主主義政治を教えるための「駐留軍」になった。
そして、たしかに私もそのひとりとして日本人は民主主義を学び、身につけ始めた。それは「占領軍」の力によって押しつけられたことではなかった。長年の強権政治の下で傷めつけられて来た(「昭和」になっての軍国主義政治はその長年の強権政治のきわめつけだ)日本人の多くが民主主義をいいものだと考えたからだ。しかし、そのいいものの民主主義をもたらしたアメリカは、日本の都市を焼きつくし、原爆投下まで行ったアメリカだ。この矛盾をどう解くか。日本人が選んだのは、一切の戦争を拒否する「平和憲法」の平和主義を民主主義に結びつけ、二つを車の両輪とする民主主義政治を樹立する道だ。その平和主義と民主主義を車の両輪とする政治は、日本の民主主義政治をただのアメリカの民主主義の真似ごとではない日本独自の民主主義にした。そう私は考えている。
この民主主義の道程を、当時13歳の少年だった私は経て、今日に至っている。今、イラクの13歳の少年にとってはどうか。一方的な殺戮と破壊のあと、米軍は今や「占領軍」として強大な軍事力を変わらず行使して彼らは彼らで強権政治を行い、彼ら流の民主主義を力ずくで押しつけようとしていると私には見えるが、イラクの少年の眼に事態はどう見えているか。 |
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