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2001年9月18日号
「同盟国」日本が今文明から求められていること
無関係、無防備の市民が乗る旅客機を乗っ取り、無関係、無防備の市民が働く建物に自爆攻撃をかけて旅客機、建物双方の数千人の市民の生命を奪うようなことは、もちろん、許しがたい野蛮な犯罪行為だ。行為の主謀者に「法」の裁きを受けさせ、責任をとらせることは、彼らの犯罪の犠牲になった市民を悼み、残された家族などをできるかぎり支援することとともに、今、当事者のアメリカ合州国のみならず、世界全体が助け合ってなすべきことであるにちがいない。ことを少し大きくして言えば、これは今野蛮の攻撃、挑戦を受けた文明が当然なすべきことだ。
しかし、今、この野蛮に対して戦争によって「報復」する―これははたして文明がなすべきことか。文明の名に値する行為であるのか。大いに疑問だ。
世界の文明が未発達、野蛮の時代にあっては、犯罪者の無法、不法に対する唯一の方策は「報復」であったにちがいない。「報復」しか無法、不法を糾(ただ)す術(すべ)はなかったのだ。殴るなら、殴り返せ。盗めば、盗み返せ。あるいは、盗みを働いた人間の手を切れ。殺せば、殺し返せ。もちろん、殺されれば、被害者はこの世にいない。では、家族、親族、仲間がカタキ打ちで死者になり代わって「報復」をやる。やれ。これはつい百年余の昔まで日本でも論理、倫理にかなった行為として行われて来たことだ。
文明は、こうした「報復」をただの仕返しの「私刑」として否定することから始まる。仕返しの「私刑」は仕返しの「私刑」を生み、「報復」はおたがいのあいだで無限につづく―その根本認識に立って、文明はこの無限、また個別の連続にとどめをさそうとする。なるほど力によって、一時的には無限連続を押さえ込むことはできる。
一方が他方の仕返しを許さないほど強大である場合だが、その一方の強大がいつまでつづくかは判らない。文明はその認識の上に立って、力によってではなく人間の理性に基づいて、理性がかたちづくる「法」を基本とする普遍の場に問題を引き出し、「報復」の無限、個別の連続を断ち切ろうとする。もちろん、その理想が完全に実現することはないだろう。しかし、その理想にむかって努力する―その努力に文明は自らの土台をおく。そこで野蛮と切れる。
私が今度の「事件」に対するブッシュ大統領以下のアメリカ合州国政府の対応にかかわっておどろくのは、そして、深く憂慮するのは、彼らが何ごとにつけ「報復」の論理、倫理を居丈高にふりかざして来たことだ。その究極が「報復戦争」だが、彼らの言辞を聞いていると、まるで中世、いやもっと昔、文明以前の野蛮の時代に立ち戻った気さえする。近代の戦争にあって、これほどあからさまに正々堂々と「報復」を戦争の理由づけに押し出した戦争はないにちがいない。日本の「日中戦争」は「東洋平和」のための戦争、アメリカの「ベトナム戦争」は「自由と民主主義」のための戦争だった。どちらもがマヤカシだったが、すくなくとも二つは「理想」をかかげての戦争だった。しかし、アメリカが今行おうとしているのは、ただの「報復戦争」―これはアメリカにとってだけでなく世界全体にとっても前代未聞の事態だ。
もちろん、この戦争によって「事件」の主謀者たちを捕らえ、「法」の裁きに服させると、大統領以下は主張している。しかし、「報復」を前提とする裁きは、ただの「報復裁判」ではあっても文明がその前提とする公正な裁きではない。結果は予想がつく。その裁判の根拠となる主謀の証拠にはそもそもいかなるものがあるのか。この国際的犯罪をいかなる「法」的根拠に基づいて裁こうとするのか。ことは何も国際的には決まっていない。決まっているのは、アメリカが強引に「報復」のための戦争をする、そこに世界をひきずり込もうとしている―ただ、それだけだ。
アメリカとつきあいの長い(43年前の留学以来だ)、友人知己も多い私には、これまでの歴史で「外敵」からの直接攻撃を受けたことがなかったアメリカは、今冷静さを失って一種のパニック状態、あえて言えば「狂気」のなかにあるようにさえ見える。
疑わしい国には攻撃をかけると言い、この戦争に全面的に協力するか否かでこれまでの「同盟国」が真の(「真の」に傍点)「同盟国」かどうかが決まるとおどし(「おどし」に傍点)をかける。これでは「同盟国」はアメリカの「属国」になれ、なるかどうかで「同盟国」であるかどうかがきまる、いや、そうアメリカが決める―と言っているのと同じだ。
今度の「事件」ではじめて逆境に立ったアメリカを、「同盟国」か否かにかかわらず世界は助けるべきだ。しかし、アメリカの「属国」になって「報復戦争」の「狂気」に加わるのではなく、自らの原理と方法に基づいて助ける―それがアメリカの「同盟国」日本が今文明から求められていることだ。 |
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