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2002年7月30日号
『老いてこそ市民』の『市民予算』
二つのことを書く。まず、「市民」のこと。ついで、「市民」がつくる「市民予算」のこと。
「市民」については、「老いてこそ市民」−この認識には私自身が老いて来たことが結びついている。しかし、それだけではない。
私たちが生きる時代社会、現代国家は、みんなが働いて日々の暮らしをたてるとともに、社会、国家を形成、維持している。子供は今は働いていないが将来は働く。その将来のために学校にも行く。老人は、働いたあとの人生最後の「バカンス」に入っている。その重要な「バカンス」を働く年少の世代が支える。この社会のあり方、また、その認識が「文明」というものだ。こうした思考をみごとに表しているのがイタリア共和国憲法だろう。その第一条は「イタリアは労働に基礎を置く民主的共和国である」。
働くことに職業と技能が結びついている。あわせて職能だが、会社員も役人も工場労働者も農民も商店主も店員も教師も医者も専業主婦も職能をもって働いている。真面目に働いていれば、役人は汚職をしないで会社員も産地のごまかしをやらないで働いていれば問題は生じないはずだが、また生じても職能を通じて解決できるはずだが、問題はいくらでも生じるし、解決もできない。仕方がない、みんなで集まって討議しようか―で、みんなが集まる。それはすでに問題がそれぞれの職能を通じては解決できないものとして、市民にあいわたるものとしてあることだ。そこに集まって来た人たちは、「職能人」としては問題を解決できなかったのだからすでに「職能人」ではない。問題を市民にあいわたる問題としてとらえて、職能を越えてともに解決をはかる―その彼、彼女は「市民」としてある。
問題をいくら論じていてもラチがあかない。じゃあ、デモ行進に出よう―面白いのは、こうした市民運動のデモ行進には、名刺交換がないことだ。横を歩く誰がどこの誰か、何者か判らぬまま、問題解決への志、思い、怒りを共有して歩く。そのとき、その横の誰とも判らぬ人と歩く老若男女―それがまさに「市民」だ。そして、そうした「市民」が「市民社会」の全体をつくり上げる。もちろん、市民運動のデモ行進ひとつで問題は解決され得べくもない。しかし、デモ行進ひとつなくて問題が解決されるなら、それはたいていが「官」的、「企業」的解決ではあっても、「主権在民」的、「市民社会」的解決ではない。またその根底に「市民」のデモ行進のない現代社会、現代国家は、ただの「職能(人)社会」「企業社会」「官僚社会」、その延長線上にある「経済大国」であっても、「主権在民」の「民主主義国家」ではない。
老いてくれば、定年退職その他でいやおうなしに職能から離れる。しかし、それは、いやおうなしに彼、彼女が「市民」になったことでもある。老いには、社会、国家の問題が集約的に集中してのしかかる。経済問題しかり、医療問題しかり―解決を年少の働く世代だけに任せておけば、問題の解決はいつでも「官」的、「企業」的になる。
「主権在民」的な解決は「市民」が自ら動いてはじめてなされ得る。「老いてこそ市民」が動くときが来ている。海外旅行へ行くもよし、ツボをつくるのもよし、しかし、ご同輩・老「市民」よ、今の世の中、あまりに憂い、怒ることが多い。
「老いてこそ市民」の自己認識の下、自らが動くべきときに来ているのではないか。
私が今提案したいのは、老「市民」が中核となって「市民」の側が町、市、県、そして国の予算を「主権在民」的につくり上げて、多くの西欧の「先進」民主主義国の野党勢力が長年やって来たように「官僚」的、「企業」的に作成されて来た体制側の「予算」にぶっつけ、その根本的な改変を迫ることだ。あるいは、その市民がつくり出した「市民予算」を実現させる。私はこの提案を大災害での被災に対する「公的援助」の実現を求めた「市民=議員立法」運動の発想と体験に基いてするのだが、老「市民」には「官」、「民」双方での財務、経理のかつての担当者がいることだろう、素人ともども玄人の心ある老「市民」が集まり、積年の職能の体験を通じて蓄積した知識と分別をおたがい出し合って、ダム建設、空港建設のない自治体予算、軍事予算半減の国家予算を「市民予算」案としてつくり上げ、政治の改革を迫る―こうしたことを、今、「主権在民」の「民主主義国家」日本は必要としているのではないか。 |
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