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2003年8月26日号
「複雑怪奇」と「バスに乗り遅れるな」
私はかつて『世直しの倫理と論理』(岩波新書、1972)と題した本を書き、市民の力は弱い、それが何であれ誰であれ、巨大、長大なものに巻かれる、市民にとってかんじんなこと、できることは、巻かれながら巻き返すことだと論じた。ベトナム反戦運動に私なりに精を出していたころだ(「べ平運」の名で知られた運動である。正式には「『ベトナムに平和を!』市民連合」。1965年から74年までつづけた)。からだぐあいをわるくして四国の田舎の「リハビリ」用の病院に入院しているあいだに、車椅子の老人と外の田畑のカエルの声に取り囲まれて書いた。その暮らしも私の主張に影をおとしているかも知れない。
私には、今、日本も世界も、ブッシュ政権でのアメリカ合州国という巨大、長大なものに巻かれて、どうしていいか判らず、その日暮らしをしているように見える。しかし、困ることはもうひとつある。それは、アメリカ自体が自らの巨大、長大なものに巻かれて、どうしていいか判らず、その日暮らしをしていることだ。
ブッシュ政権の政策の基本は、「ネオコン」(新保守派)が2000年に出した「アメリカ防衛の再建」計画だとよく言われる。21世紀は「アメリカの世紀」だとして、アメリカ主導、支配下の「パクス・アメリカーナ」(アメリカの平和)の永続、永久化をはかるこの計画は、「軍事領域の革命」をアメリカは実現すると主張する。しかし、アメリカの「革命」は軍事に限られることではない。「革命」が何んであれ、現存の体制の破壊、転覆を意味するなら、一方的先制攻撃の実行、国家(主権)の破壊、転覆、国連の無視、否定など、アメリカは今世界大にひろがる「革命」−まさに「世界革命」を行いつつある。
しかし、ここで問題が起こる。「革命」は何んであれ、破壊、転覆のあとに新しい事態をつくり出す。それはこの新しい事態に当の「革命」を起こした「革命」勢力自体がこれまでの方法、思考では対応できなくなることだ。すでに「革命」勢力自体が、過去の遺物と化してしまっているのだが、この過去の遺物が新しい事態に力づくで強引に対応しようとして来たのが、そして、ついに対応しきれずに力つきてしまったのが、「社会主義革命」だった。そう私は大きくことをとらえる。歴史は、こうした「革命」の「逆説」の冷厳な事実に満ちている。
アメリカの攻撃後のイラク状勢は、今まさにこの冷厳な事実を示しているように見える。攻撃はそれ自体は成功して、アメリカによる「革命」はなされたが、そのあと生み出された新しい事態にアメリカという「革命」勢力は十分に対応しきれていないことは明白だ。彼らは今いわば対症療法的に事態に対応しようとして、その日暮らしをしている、しかし、それでやって行けるのか。彼らは国連を無視して戦争を始め、戦後ぐあいがわるくなると、国連をかつぎ出す。しかし、今、イラクにおける国連の中枢、バグダッドの事務所はむざんに破壊された。
そして、問題は、このアメリカという巨大、長大なものに巻かれた日本をふくめての世界がどうあるか、どうなるかだ。かつて「バスに乗り遅れるな」ということばがはやったことがあった。1940年―「昭和」15年のころだ。私の子供のころだが、子供の私でさえが憶えているのだから、よほどはやった。その前年1939年にはやったのが「複雑怪奇」―「日独防共協定」で硬く結ばれたはずのナチ・ドイツが突如あろうことかソビエトと「独ソ不可侵条約」を締結。事態の突然の変化に対応しきれなくなった平沼内閣はこの一語を残して総辞職する。しかし、そのあと、ナチ・ドイツはヨーロッパで戦争を始め、翌40年にはお得意の電撃戦で大勝利を博する。そのとき日本で大合唱のかたちで起こったのが、この「バスに乗り遅れるな」だ。この大合唱の勢いで、ついに「日独伊三国同盟」は成立し、あと、翌41年には戦争、さらには4年後、45年には大破局にまで至る。
私が今さらながらこのかつての大流行語を思い出すのは、現在の事態があまりにもその時代に似て来ているからだ。2年前の「9・11」は、あまりにも「複雑怪奇」な事態だった。世界はどうにも対応しきれなかったのだが、今はとにかくアメリカという「バスに乗り遅れるな」。いち早く乗ったのがイギリスだが、あと、世界各国それぞれに「バスに乗り遅れるな」。日本も、その大合唱に煽られて、有事法制を整備し、イラクにまで自衛隊を派遣することを決めた。
大合唱の前提として、それが原理的、また道義的に正しいかどうかは判からないが、このアメリカというバスは動いている、乗り遅れるな―の認識がある。しかし、バスはどこへ行くのか。バスの運転手にさえ行先は今やさだかでない。巨大、長大なものに巻かれながら巻き返すとき、巻き返さないとえらいことになるときに日本をふくめて世界は来ているにちがいない。国にとっても国をかたちづくる市民にとっても。
(ひとつおことわりする。前回で7月7日の「七夕パレード」で「慮溝橋事件が「忘失」されていたと書いたのは私の調査不足で誤り。「忘失」されていなかった。その誤りを主催者にあやまる) |
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