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2002年6月25日号
歯止めが崩れかかって来ている
世界の歯止めが崩れかかって来ている。戦後の世界を論理的、倫理的に律して来た、「東」「西」対決の「紛争構造」の中でも、それが根底にあって世界の暴走、破滅が阻止された歯止め―それが日本をふくめて世界で崩れかかって来ている。私のその危惧をもつ。
歯止めのひとつは、「ナチ・ドイツ」の過去、その記憶だ。その過去は、戦後、自由主義、社会主義であれ、どのような立場をとろうと非難できる、いや、非難すべき途方もない悪としてあって来た。日本の過去の侵略、植民地支配は、すでにイギリス、フランスをはじめとして「西洋」諸国がやってきたことだ。その過去の悪を根本的に反省、謝罪しないことも、日本ばかりではなく、「西洋」諸国も行なった。日本はそれをひとつの逃げ口上にして過去に責任をとらずに戦後世界を生きて来た。しかし、「ナチ・ドイツ」の悪は群を抜いていた。逃げ口上のない、いわば、絶対悪だった。この絶対悪をくり返してはならない。くり返させてはならない―この論理、倫理が戦後の世界の歯止めのひとつをかたちづくった。
しかし、今、この歯止めは崩れかかって来ている。「ナチ・ドイツ」の再現が今そのままのかたちでなされて来ていると言うのではない。しかし、歯止めの一部は今あきらかに崩れつつある。「われら」の生活が苦しいのは、おびやかされているのは「彼ら」ユダヤ人のせいだ―は、かつて「ナチ・ドイツ」出現の土台となった認識だが、そこでの「ユダヤ人」を難民、移民、あるいはアラブ、イスラム、「テロリスト」にかえれば、今、ヨーロッパ各地の「極右」勢力出現の根拠になる。いや、さらにこわいのは、これが今さかんにおこなわれようとしている、まともな政府、政党の難民、移民排除の政策実施の論理、倫理となっていることだ。
さらにまた、こわいことがある。過去の絶対悪の被害者、犠牲者のユダヤ人の国家、イスラエルがパレスチナ人相手に「国家テロ」としか言いようのない戦争を強引に行なっていることだ。世界大にことを拡大すれば、「テロリスト」打倒を大義名分として、アメリカ合衆国はアフガニスタンで報復戦争を強行し、今や、イラクをもその戦争強行の対象としようとしている。これは、かつての「ナチ・ドイツ」がもはや絶対悪ではなくなって、悪は悪だとしても、なみの悪の段階になって来ていることだ。なみの悪は場合によっては必要悪になる。そうみなされ得る。いや、そう悪をとらえれば、これは悪よりもやるべき善ではないのか―そうした認識も成立する。
戦後世界のもうひとつの歯止めは、「ヒロシマ」「ナガサキ」だった。これは核兵器の使用、核戦争に対する歯止めになって来た。「ヒロシマ」「ナガサキ」の悲惨とその記憶は核兵器の使用、核戦争を絶対悪として世界の人びとに認識させ、この認識がまちがいなく歯止めになって、核兵器の使用、核戦争を阻止して来た。
しかし、今、この歯止めも急速に崩れつつあるように見える。この事態には、次のような事情がからみあっている。ひとつは、通常兵器の破壊力が強大になり、破壊力において核兵器との境界線がぼやけて来ていること。もうひとつは、逆に核兵器が小型のものになって、これもまた破壊力において通常兵器との境界線がぼやけて来ていること、いや、そんなふうに強引にみなされ始めていることだ。「劣化ウラン弾」は、この境界線のぼやけてきたところに出現して来た武器だ。
こうした事態は核兵器の使用、核戦争を絶対悪とする認識を弱める。それはたしかに悪は悪だが、必要悪として行使しなければならない事態があるかも知れない。いや、ときと場合によっては、この必要悪は必要善にもなり得る。−こうした論理、倫理の転換は、今、イラク攻撃の可能性にかかわってブッシュ氏の発言に示唆されているだけのことではない。「ヒロシマ」「ナガサキ」の国、いつもそれを標榜してきたわが日本の「政府有力者」転じての官房長官の「非核三原則」の見直しもこれからの世論の変化によってあり得るとする発言に転換は明快に読み取れる。戦後のドイツが「ナチ・ドイツ」を絶対悪として認識する原理に基づいてかたちづくられて来た国家だとすれば、戦後の日本は「ヒロシマ」「ナガサキ」の悲惨を絶対悪として認識する原理を根底においてかたちづくられ、生きて来た、そのはずの国家だ。「非核三原則」は「ヒロシマ」「ナガサキ」の悲惨の絶対悪を二度とくり返してはならないとする認識の上にかたちづくられた歯止めの原則であったはずのものだが、今、「政府有力者」の官房長官は、それは変わり得る、変わってもいいものだと主張する。これで歯止めが崩れかかって来ていないと言えるか。その先に何があるのか。 |
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