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2002年1月29日号
それは破滅ではないのか ―「正義は力だ」「力は正義だ」の論理と倫理―
「正義は力だ」「力は正義だ」が、今また、世界に横行し始めている。昨年九月のニューヨークその他での「同時多発テロ」、それにつづいてアメリカ合州国が「テロ撲滅」の「正義の戦争」の名の下に無関係の他国を強引に巻き込んでひき起こしたアフガニスタンに対する「報復戦争」以来、その論理と倫理が横行どころか日本をふくめて世界を支配して来ている。
第二次世界大戦は、連合国にとって、文句なしの「正義の戦争」だった。その「正義の戦争」で、圧倒的に強大な武力を行使して、連合国は勝利を博した。まさに「正義は力だ」「力は正義だ」。しかし、その「正義の戦争」は強大な「反省」を当の連合国をふくめて世界全体にもたらした。過去の歴史と戦争それ自体に対する「反省」だ。戦後の最大の現象のひとつは、植民地の解放と独立だが、それはとりもなおさず西洋を中心とした(日本もその尻(しり)馬に乗った)世界規模での強者による弱者の植民地支配、抑圧、収奪、差別の過去の歴史に対する「反省」を必然にしたことだ。すくなくとも、そのはずだったことだ。そして、戦争は、その大義名分がどうであれ、巨大な殺戮(さつりく)だった。また戦争に至る過程のなかで、また戦争のなかで、人権は完全に踏みにじられた。「反省」はそこでも必然のことになった。そのはずだった。
こうした過去の歴史と戦争自体に対する「反省」の上に、戦後の歴史のそのもっとも重要な部分はかたちづくられて来た。たとえば、国連の創設、その活動、「世界人権宣言」「国際人権規約」に基づいての人権の原理的確立、あるいは戦争を正面から否定する日本の「平和憲法」、ドイツを中心とする西欧における「良心的兵役拒否」の法制度化(今、ドイツにおいて「良心的兵役拒否者」の数は兵役従事者と同数、いや、上まわる)――こうしたことは「正義は力だ」「力は正義だ」の論理、倫理に対する「反省」の上に築き上げられて来たものだ。
「同時多発テロ」に対する世界を巻き込んでのアメリカ合州国の「報復戦争」がこうした「反省」を無視、拒否して行われた「正義の戦争」であったことは言うまでもないが、さらに大きな問題は、その「勝利」後、第二次世界大戦のあとにあった「反省」が今世界に見られていないことだ。アフガニスタンの今後に関する国際会議は鳴り物入りで大々的に行われた。しかし、そこにはアフガニスタンの現在の事態に責任のある過去の歴史と戦争自体に対する「反省」はまったくなかった、「反省」なしに、ただアフガニスタンのかわいそうな人間たちを助けてやれ、に終始した。これでは新しいアフガニスタンの未来はない。
そして今、「正義は力だ」「力は正義だ」――の論理、倫理の展開の下、わが日本は「平和憲法」を踏みにじって「海外派兵」を行い、アメリカ合州国は軍事力の強化にさらに乗り出そうとする。あるいは、さらにイスラエル軍はパレスチナ人弾圧にむかって戦車をくり出す。とにかく強くあれ、だ。強ければ、正義はわがものとなる。
私が今こわいと思うのは、こうした力の論理、倫理が戦争と平和の問題、軍事力、暴力の問題だけではなく、臓器移植、遺伝子操作、生殖細胞加工、人工臓器の製造などから始まってさらにシャニムニ突き進もうとする「生命科学、技術」にかかわって、私たち人間の「生命」に関する領域に今大きく姿を現して来ているからだ。ここでの「力」は軍事力ではない。まとめ上げて言って、人間の「知」の力とそこに強力に結びつきつつある「金」の力だ。二つの力が結びついて、それが「特許」という制度の保証、保護の下に「生命」を企業化すれば、空前の大儲(もう)けになる。ここ数年来、いや、ほんの数ヵ月のあいだにも、今、世界はその方向に急速に進みつつあるように見える。「生命科学、技術」の「進歩」は人類に救いをもたらすかも知れないが、人類の破滅をもたらすかも知れない。それは今、当の研究者自身をふくめて心ある人たちが危惧(きぐ)することだが、確実に言えることは、それが一部の人間にとって最大の金儲けの機会になることと、巨大な差別構造をあらたに形成する機会にもなり得ることだ。いや、もうひとつ言えることがある。それは、この領域におけるアメリカ合州国の優位は動かしがたいことだ。
「正義は力だ」「力は正義だ」の論理、倫理に基づいて世界があるかぎり、圧倒的に強大な軍事力をもつアメリカ合州国を中心として世界はあり、動く、いや、動かされるのは当然のことだ。「生命科学、技術」の領域においても、同じことが言える。今、日本人であろうと誰であろうと、世界の市民が考えるべきことは、はたして、このアメリカ合州国を中心、先頭として動く世界の未来に、いったい何があるか、だ。それは破滅ではないか、と一人の市民として私には思える。 |
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